悪意のある言い方でいえば、コピー文化は中国のお家芸と言っても過言ではないだろう。しかし、我々がコピーという時、「パクリ」などと言って、蔑みの意味が込められている。
偽物のミッキーに然り、ピカチュウに然り。「しょせん、偽物じゃん?」と。それに、日本では「海賊版、絶対ダメ」という刷り込みからか、偽物を持つことに後ろめたさを感じてしまう。
しかし、中国本土に一度足を踏み入れると、コピー文化の別の面が見えてくる。上海の繁華街にあるショッピングモール内を練り歩いていた時のこと。ふと目に入ったという理由だけで、我々はイッセイミヤケの店に足を踏み入れた。お互いブランドには全く興味がないので、単なる冷やかし客である。私がイッセイミヤケの代表作とも言えるバッグを手に取って眺めていると、横から友達が、
「ちゃうちゃう。本物なんて買うもんやないで。見てみい。このバッグが欲しかったら、ネットで同じデザインのがこんだけあるんやで。しかも値段はめっちゃ安いねんで」
と言って彼女は、すぐさまネットで同じデザインの商品を検索し、ずらっと同じデザインの商品が並んだ画面を見せてきた。
ほう。
確かに見た目は同じ。そして値段は本物の5分の1以下の値段である。彼女には、”偽物”に対する背徳心など微塵もなく、安くていいものを買うのが当たり前だろうと言わんばかりである。私はそんな彼女をみて、「出たよ、中国のコピー文化」と心の中で思ったが、その後どこへ行くにもコピー文化がついて回ることになる。
中国発というファッションブランド店にも案内されたが、これがまあ失礼ながら中国発とは思えないほど、オシャンティなのである。H&MやZARAと並ぶぐらい洗練されている。
「みてみい、このバッグのデザイン。どっかで見たことがあるようなデザインやろ」
確かに。バッグは、シャネルの親戚のような顔をしていた。シャネルだけに限らず、商品を眺めていると、どこかで見たようなデザインが、ぼうっと頭の片隅に浮かんでくる。パクリといってしまうこともできるが、商品達は、「我々はパクリではなくオマージュです」といった雰囲気を放っている。実際に商品を手に取ると、品質は高く、デザイン性も高い。そして何より、値段もお値打ち。これは買ってしまいたくなる。
これだけコピー文化が正当化されている場所にいると、だんだん考えも変わってくる。
似たようなデザインをもっと安く買えるのならそっちの方が良いのでは?というより、低コストで同じようなものを作れるのだから、正規の値段とは一体・・・評論家の岡田斗司夫が、こうした偽物が安く出回るのは、正規のブランド品の値段がそもそもおかしいからだと言っていたのを思い出した。
そもそもコピーの何がいけないのか。
すべてのものは、コピーじゃないか。iPhoneが売れたら、それに類似した商品をサムスンやらも出しているわけだし。トレンドであれば、同じようなデザインをいろんなアパレルブランドが取り入れている。むしろコピーされると、都合が悪い人々が「コピーはあかん」と言っているような気もする。むしろ消費者にとってコピーはありがたいことだ。安く優れたものを買えるのだから。
もしかしたら日本人は、コピーに対して世界で一番、罪悪感を感じている人種なのかもしれない。子どもの頃、友達の髪型や筆箱をいいな、と思って同じようなものを手に入れると、「パクリだ」と断罪される残酷な子ども時代を生きてきた。
中国の友人には、私が持つような「パクリは悪」という心情がまったくなく、むしろポジティブに捉えているようなきらいさえあった。そんな彼女が別れ際に指輪をくれた。指輪にはVIVIENNEと書いてある。要はヴィヴィアン・ウェストウッドの「テューダー・ローズ」だ。ファッションにお金を使わない彼女が買うぐらいだから値段は、正規の10分の1以下だろう。ネットで本物の指輪と見比べても、遜色はない。本物かコピーかわからない指輪を私は今も左の人差し指につけている。