日本人も英語ネームを持つべきだと思った瞬間

もうダメだ。限界である。あれを切り出すしかない。

これは冷めきった夫婦の離婚話ではない。

名前の話である。日本を出ると、当たり前のことだが、多くの外国人に出会う。その中で思うのが、日本人もやっぱり英語ネームを持った方がいいんじゃないか、ということだ。

ドバイで働いていた時も、自分の名前をきちんと発音してもらえないことが、日常茶飯事だった。

海外では名前を頻繁に呼ぶ

私の名前はSEIWA(セイワ)なのだが、外国人が発音すると「シワ」とか「セワ」になるのである。どうも、母音のエとイが連続しているゆえに、外国人のお口には合わないらしい。上司からもずっと、「シワ」と呼ばれていた時期がある。

とはいえ、私も怠惰な人間であった。だからと言って、いちいち発音が間違ってますよ、ということもなかったし、ましてや英語ネームを持とうという発想すら持たなかった。

私が思うに、海外では人の名前を呼ぶ頻度が高いと思う。日本では、「先生」、「先輩」、「部下」、「社長」、「課長」といったように、人の名前ではなく肩書きで呼び合うことが結構ある。しかし、英語カルチャーではこれがない。

挨拶をするときにも、「おはよう」だけでは気が済まないらしく、必ず名前を冒頭につけて、パーソナライズド挨拶をする人が多い。社長や役職が高い人に対しても、「マイケル」とか「ポール」といった風に名前を呼び捨てをしなければならない。

私にとっては、これがなかなかハードルが高かった。日本ならば、お辞儀ぺこりで済ませるところをお辞儀を封印して、「ハ〜イ!マイケル!」と、フレンドリーに挨拶しなければいけないのである。

頭ではわかっていても、なかなか体と声が動かなかった。日本で生まれ育った私にとっては、コントみたいだからである。「ハ〜イ、マイケル!」とはいかにも、白々しい。よって、最初のうちは、どうしたら良いか分からず、社長を前にただヘラヘラと直立するだけだった。

最悪である。

このように名前を呼ぶ頻度が高いので、相手の名前を覚えることは必須である。

自分の名前を呼ばれないという悲劇

決定的だったのが、昨年の11月に行ったイラク旅行だった。みな見知らぬ人間たちの集まりによる、グループ旅行である。

すでに自分の名前が外国人に馴染みがない名前である上に、発音しにくいという自覚はあったので、私は自己紹介の時に”Say What(今、なんつった?)”という発音ですよ、という一言を添えた。

が!

私の発音を正しくいえたのは、11人中4人であった。残りは、「シワ」、「セワ」、「サワ」などと、一人ずつ微妙に違うのである。同じ人間であるが、こうも別の名前で呼ばれると、自分が多重人格者になったような気さえする。

名前が正しく呼ばれなかったことが悲しかったのではない。むしろ、呼びにくい名前でスマンと思うのであった。

グローバル最前線をいく中国人

思えば、この道で最先端を行くのが、中国人である。中国人たちは、外国人には、中国名の発音は難しすぎることを知っており、みな英語名を持っていた。大学時代に、イスラエル留学で出会った、中国人もそうだった。

ゆえに、私と同じような薄いアジア人顔であっても、キャサリンやダニエルになるのである。

当時の浅はかな私は、このギャップに密かに苦笑していた。キャサリンやダニエルであっていいのは、目鼻立ちがはっきりしている欧米人だけだ、という矮小な世界観ゆえである。

しかし、このイラク旅行後、私は気づいてしまったのである。

自分が鼻で笑っていた英語ネームを持つ中国人たちは、グローバル最前線にいたのだと。外国人を意識して、人目もはばからず、外見とは似つかない英語ネームを名乗っていた中国人たち。

それはすべて、相手への思いやりだったのだ。

日本を離れて4年半。私はその時、初めて気づいたのである。

発音しやすい、そして覚えやすい名前であること。これは、かけがえのない財産である。

特に人の名前をほとんど覚えない私にとっては、初対面の外国人の名前をすぐに覚えるのは、困難なことであった。(ちなみにアラブ人の名前は、だいたいモハンマドとかアブドゥッラーなので、非常に覚えやすい)

それがもし、誰もが馴染みのある名前だったら・・・

それだけで相手の負担を減らすのである。

イラク旅行の一件から、私は「サラ」という英語ネームを持つことにした。サラなら、日本ネームでもある。金髪で青い目のサラ顔でなくとも、これなら自分で納得できる。

ちなみにアラビア語の名前は10年以上前から持っている。パレスチナの難民キャンプを訪れた時、難民キッズにもらった名前をいまだ使い回しているのだ。

コントでもないのに、英語ネームを持つことは、ちょっと気恥ずかしいことでもある。けれども、「サラ」になることは、相手への思いやりでもあるのだ。そう、自分に言い聞かせている。