1ヶ月間の断食生活(ラマダン)がスタート!

いよいよ聖なる月ラマダンが始まろうとしている。

けれども、ふと気づいたら夢中になって、ニーチェの本を漁っている自分がいた。「神は死んだ」で世間をざわつかせた、あのニーチェである。

聖なる月が始まる前日、「神は死んだ」

偶然なのだ。

フィリピンで原始的な生活を送る森の民に関する本を読んでいたら、著者がニーチェの格言を利用して森の民について考察している。だから、つい気になって今更ニーチェ関連の本を読んでいる。

決してラマダン前に「神は死んだ」ことにして、断食を逃れよう、という目論見ではない。悪いのは、森の民をニーチェで考察するという手法なのである。

そんなわけで、「神は死んだのか・・・」という精神状態で、今年のラマダンは始まった。

日没から1日がスタート

イスラーム教の暦は、月の満ち欠けによって月が決まる太陰暦を使っている。太陰暦の考え方では、1日は日没から始まる。午前0時に日付が変わることになれている人間にとっては、ちょっと不思議な気分。

普段の生活を送る上では、あまり気づくことがないが、イスラーム暦で決まるイベントなんかになると、特に感じる。

ちなみにユダヤ教も同じ。毎週金曜日は、「シャバット」と呼ばれるユダヤ教の祝日である。

シャバットの日は、あらゆる労働が禁止されているので、すべての店は閉まり、車の運転も禁止される。

指を動かして、電気のスイッチを入れることすら「労働」とみなされるので、電気は基本的につけっぱなしにする。料理も「労働」なので、前日に作り置きしておくのだ。

ユダヤ人のルームメイトと暮らしていた時は、「シャバット中だから電気つけられないの〜。電気つけて〜」などと、労働を課せられたこともある。

こうした「シャバット」の現象が始まるのが、金曜日の日没から土曜日の日没まで。1日の始まりが日没から始まり、日没で終わる、ということが如実にわかるケースだ。

ラマダンスペシャルで追加の礼拝

5月5日。日没になり新月が目視で確認された。ラマダンの始まりである。というわけで、近所のモスクへ向かう。ラマダン初日は、スペシャル企画が用意されている。

スペシャル企画といっても、ワクワクするようなもんではない。

「タラウィーフ」と呼ばれる追加の礼拝である。通常の1日5回の礼拝に加え、ラマダン中だけに行われる、いつもよりロングバージョンの礼拝である。こちらは、5回の礼拝は義務だが、こちらは任意である。

ラマダンが始まったということで、モスクには平日の夜だというのに大勢の人が集まっている。70人近くいるとみられるムスリム女性たちからは、むんむんと熱気が伝わる。いつもだったら、4~5人ぐらいしかいないモスクだが、ラマダンともなると気合の入れようが違うのだ。

イスラーム教徒ってどんな風に祈るの?

ここでちょっと礼拝の方法についてご紹介しよう。興味のない人は、読み飛ばしてもよい。

礼拝は横一列に並び行われる。知り合い同士で固まったりだとか、一人で来たらから一人で祈る、ということはしない。知らない同士が隣り合って祈るのが、イスラームスタイルである。

この並び方にもポイントがあり、離れすぎてもくっつきすぎてもいけない。少しでも隙間があると、見知らぬ人から服をひっぱられ「もうちょっとくっつけ」などと言われる。

見た目としては、小学生が「横に一列に並べ!」と号令をかけられた時と同じである。

こうして並んだ我々は、一連の礼拝の動作を行う。礼拝をする時には必ず、祈りを先導する人がいる。

つまりは、号令係である。それがイマームと呼ばれる人だ。たいていは、信仰心が高いおっさんである。お寺の和尚さんみたいなものだと考えればよい。

真面目に詳しく知りたい人はこちらを参照に
イスラム教の礼拝に関する疑問を解決!礼拝時間&方法を徹底解説

おっさんのアカペラで祈るイスラーム教徒たち

礼拝では必ずコーランの1節を暗誦することになっている。暗誦というと分かりづらいが、ようはアカペラ風でコーランを読むということである。

だから、礼拝中に我々が聞かされるのは、おっさんの一人アカペラである。嘘だと思う人は、モスクが近所にあれば実際に聞きに行って見てほしい。

号令係を務めるだけあって、おっさんといえどもそのアカペラの実力は高い。高尚な子守唄にすらきこえる。

モスクでの礼拝は、神に祈る行為でもあるが、単純に見れば赤の他人と同じ動作を繰り返す行為でもある。

赤の他人に挟まれて、同じ動作を行う時。なぜだが、言いようのない安心感と心地良さに包まれる。

黒いアバヤからは、シワが刻まれた手や浅黒い手、白い手などがのぞいている。国籍も年齢もみなバラバラな集まりである。だけれども、そこにはゆるいつながりがある。

日本で、赤の他人と触れ合う場所といえば、通勤電車ぐらいなものである。しかし、それはどちらかというと不快な触れ合いである。

同じ会社勤めをするリーマン同士とはいえ、車内は殺伐とした敵意に満ち溢れている。そこに、心地よいつながりはない。

感極まりすぎたのか・・・

ラマダンスペシャルの礼拝が始まった。これが一度始まると、1時間近く立ちっぱなしになる。同じ場所に直立し続けるのは、結構辛いものがある。

アカペラをかなでるイマームも、はじめは、「ラマダンだぜえ!」と言わんばかりに、やる気まんまんのドヤ声でアカペラをやっていた。ゆっくりと、言葉をかみしめるように読むのである。

しかし、さすがに単独で1時間のアカペラはきついのか、後半になるにつれて早口でコーランを読み始めるのである。

号令にならって、ぼそぼそ言っている我々ですら、喉が渇いて疲れているのだ。全力アカペラをするイマームが、早めに切り上げようとするのも無理はない。

ふと、横目で見やると隣で祈っている女子が肩を震わせている。笑う箇所はどこにもないぞ。思い出し笑いにしても長すぎる。とすれば、泣いているのだ。

ラマダン中や礼拝の途中に、時々感極まって涙する人が時々いる。ものすごい辛いことがあったのか。それとも、精神が昇天しまったのか。その精神状態は計りかねる。

まだ早いよ!初日だよ?泣くなら、1ヶ月断食生活を乗り切った後じゃないの?などと、ついつい心の中でつっこんでしまう。

それにしてもまだ終わらんのか。いい加減疲れたぞ。

しかし、これもまた試練の1つなのだろう。我々は試されている。これができなきゃ、1ヶ月断食生活も乗り切れんぞ、と。

マンガでゆるく読めるイスラーム

普通の日本人がムスリム女性と暮らしてみたらどうなる?「次にくるマンガ大賞」や「このマンガがすごい!」などでも取り上げられた話題のフィクション漫画「サトコとナダ」。

20代後半から海外で生活。ドバイで5年暮らした後、イスラーム圏を2年に渡り旅する。その後マレーシアで生活。大学では社会科学を専攻。イスラエル・パレスチナの大学に留学し、ジャーナリズム、国際政治を学ぶ。読売新聞ニューヨーク支局でインターンを行った後、10年以上に渡りWPPやHavasなどの外資系広告代理店を通じて、マーケティング業界に携わる。

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