ブルカを着た日本人 ペシャワールの旅4

パキスタンで一番好きな場所は?と聞かれれば、ペシャワールと答えるだろう。美しいムガール建築が残る古都ラホールでもなく、桃源郷フンザでもなく。ペシャワールなのだ。

アフガニスタン人たちが行き交う町

ペシャワールは、アフガニスタン国境の近くの町であり、今も多くのアフガニスタン人たちが行き交う町である。中には難民もいるが、ビジネスにやってきている人もいるという。逆も然りで、パキスタンからアフガニスタンへ出張へいくものもいる。

そうした出張者が滞在する宿を見せてもらった。こうした宿には茶屋があり、かつての旅人たちはこうした茶屋に集まり、情報交換の場になっていたのだという。

アフガニスタンビジネス宿
アフガニスタンからやってきた人々が寝泊まりする宿。ベッドがずらりと並んでいる。

アフガニスタン人
泊まり客であるアフガニスタンからやってきた老人。その風貌にアフガニスタンという国のエキゾチックさを感じさせる。

ペシャワールといえば緑茶

パキスタンといえば、チャイ。しかし、ここペシャワールでは緑茶の方が優勢。緑茶に砂糖を入れる飲み方もあるが、その味は例えるなら、他人の空似である。

知り合いの緑茶だ!と思って飲んだら、甘さが後からダッシュで追いかけてきて、全然違う人だった、という感じである。

ここペシャワールでは、やたらとお茶をした。ちょっと疲れて休憩する度にガイドが、「お茶しよ」と言ってくるのである。というわけで、我々は1日に何度も茶屋へしけこむのであった。見知らぬ町で、飲み慣れた緑茶を味わうのは不思議なものである。

ペシャワールの茶屋
ペシャワールの茶屋。茶葉にカルダモンを加えるのがペシャワール流。

ペシャワールの緑茶
砂糖と一緒に出された緑茶

ブルカを着た日本人

パシュトゥーン人の多さゆえなのか、パキスタンの他の町とは、雰囲気も違った。例えば、ブルカをかぶる女性が多いこと。シンド州やパンジャーブ州でも見かけたが、ここは圧倒的に多い。女性が透明なマントで姿を消しているため、見た目的には男ばかりの町に見えた。

ペシャワールの町
ブルカを着た女性がゆくペシャワールの町

実際にブルカとはどんなものなのかと思い、現地で購入し着てみた。日本を含め欧米では、女性の権利を抑圧する憎むべきアイテムと見なされているが、思いのほかさらりとして着心地がいい。そしてどこかホッとしている自分もいた。パキスタンの町を歩いていると、「ゴリラが町を歩いているぞう!」と言わんばかりに、人々が視線をよこしてくる。しかし、ブルカの中にはあらゆる視線をシャットアウトした落ち着ける空間があった。ただ、難点はよく前が見えないことである。

ブルカをきた日本人
ブルカをかぶった筆者

日本人からすれば「ヤバあ・・・女性かわいそう」と思うかもしれないが、ジェンダーギャップ指数ランキング底辺の日本が言えたものではない。不平等や抑圧というのは、目に見えるものだけではないのだ。また、当人がその事実に気づいていないというケースもある。

それにどういう立場から物事を見るかにもよる。日本やヨーロッパのように女性が個性豊かな服を着ることが当たり前の自由とする社会からすれば、ブルカをかぶった社会はひどく保守的かつ後進的に見えるだろう。一方でイスラーム社会には彼ら独自のルールがあり、見方がある。欧米社会における自由は、必ずしもイスラーム社会の自由とはならないのだ。

歓待の町ペシャワール

おどろおどろしいイメージとは違い、ペシャワールの人々の目は温かった。外国人をいぶかしげに見るのかと思いきや、人々(といってもほぼメンズ)はやたらと愛想がいい。そのにこやかな表情は、パキスタンの他の都市とは明らかに違っていた。

歓待をポリシーとするパシュトゥーンが多いせいもあるのかもしれない。彼らは、アフガニスタン最大の民族であり、「パシュトゥーンワーリー」と呼ばれる独自の掟を守っている。それは武士道とどこか似ているものがある。

パシュトゥーンワーリーには、見返りを期待せずにゲストを徹底的に歓待せよ、というホスピタリティの掟もある一方で、女性の貞操を厳しく守る掟もそこには含まれている。

ペシャワールの町中には、テーマごとのマーケットがある。例えば、野菜・果物、医薬品、スイーツ、日用品などテーマごとに小さな個人商店が所狭しと並んでいる。医薬品やスパイスを扱う一角で目立ったのが、シク教の人々である。

シク教の人々は、見た目ですぐわかる。男性はターバンにヒゲ。そう、日本人がイメージするインド人像、それがシク教の人々である。シク教以外のインド人は、ターバンをしていない。パキスタンでは、かつてシク教徒をターゲットにした大規模な暴力事件も起きている。イスラーム教徒が多数派をしめるパキスタンでは、肩身は狭い。

しかし、ペシャワールはパキスタン最大のシク教徒人口を占める場所になっている。なぜか。それが先のパシュトゥーン人の掟である。掟には、敵や紛争から逃れてきた人々を助けよ、「保護」の掟がある。

ペシャワール
ペシャワールのメンズたちは、カメラを向けるとやたらとポーズを取りたがる

ペシャワール
香水を販売するおじさん(左)。注射器に入った香水を振りかけてもらうガイドのプリンス(右)

ペシャワールの人
写真を撮ってくれえ!と言われたので写真を撮った

ペシャワール
ケバブ屋さん。パキスタンでは炭火でケバブを焼くので美味しさも違う


地元で”グル”と呼ばれる砂糖玉に埋もれているおじさん

異文化が交じる町

今ではペシャワールは、アフガニスタンとは切っても切れない町のようである。ただ、過去をさかのぼれば、多くの異邦人たちがこの町を通っていった。古くはアケメネス朝ペルシャ、アレクサンドロス大王、チンギスハーン、ティームール、ムガール。お隣のアフガニスタンだけでなく、中央アジアの風も感じられる。特に町に残る古い建物を見ると、それがよくわかる。

特に興味深いのが、いたるところにあるダビデの星。ダビデの星といえばユダヤ人のシンボルだが・・・

「ここはねえ、ブハラからやってきた人々が建築に携わってたから、ダビデの星があるんだよ」

ブハラというのは、現在のウズベキスタンの都市である。かつてはユダヤ人が多く住んでいたことでも知られる。


ペシャワールの歴史地区。かつて住んでいたという富豪たちの家が今も残る。


セティ・ハウス博物館。19世紀後半に建てられた。セティ家は、ヒンドゥー教の商人でロシアや中央アジアとも広く交易をしていた。博物館内には、当時のロシア通貨なども展示されている。


ブハラ建築に影響を受けた建物


中央アジアの影響を受けた幾何学模様で彩られた天井


ゴルカトリにある市立博物館


市立博物館内にある一室。他のパキスタン地域では見られない内装がペシャワールのユニークさを物語っている。

ペシャワール_マハバット_カーンモスク
ムガール建築の様式で建てられたマハバット・カーン・モスク

ペシャワールのモスク
マハバット・カーン・モスク内はムガール特有の華のフレスコ画であふれている

宝石の町

ペシャワールのゴールドマーケット周辺には、小さな宝石ショップが並んでいる。その中には、ラピスラズリもある。日本では瑠璃と呼ばれている。アフガニスタンは古代からラピスラズリの生産地としても知られている。というわけで、アフガニスタンに近いペシャワールでは、多くのラピス製品を目にすることができた、

個人的にラピスラズリは、尊すぎる鉱石である。人間に例えるなら、その美しさは畏れ多すぎて、簡単には近づけない・・・そんな鉱石である。

なにせラピスの歴史は古い。古代エジプトのファラオのマスクにも使われている(そう、あのシマシマの青い部分である)。正倉院には、「紺玉帯」と呼ばれるアフガニスタンのラピスを使った一品が保管されている。そう、古代の人々もまたその貴重さと美しさゆえに、重宝してきたのがラピスである。

鉱石は砕けば顔料にもなる。しかしその貴重さゆえか、ラピスを元にした顔料は、あらゆる色の顔料の中でもトップを争うぐらいに値段が高い。ブルー系の色は、アース色などに比べると比較的高くなりやすいのである。

そんな畏れ多いラピス様を、身近に見ることができるのがペシャワールでもある。こんな貴重なラピス様が、こんなに出回ってていいのかと思うぐらい、町はラピスにあふれていた。

ペシャワールのゴールドマーケット
ゴールドマーケット


宝石ショップでは、好きな石やデザインを決めてオーダーメイドでジュエリーが作れる

ラピスラズリ
ラピスラズリの石を研いでいる

ラピスラズリ
研ぎ終わったラピス

ラピスラズリ
ラピスラズリを加工した製品

あらゆる人々を受け入れるパシュトゥーン人の掟のせいかもしれないが、この町にはいろんな人々が行き交っていた。人々の瞳をのぞけば、ブルー、グリーン、ヘーゼル、ブラウン。まるで宝石のように多様な色があった。そして惜しみもない人々の無条件の歓待が、光の乱反射のように町を幻想的に見せた。そして何より、意図しなかった驚きや美しさが、詰まっていた。

19世紀にこの町を訪れたイギリス人は、「あらゆる民族、あらゆる商品、求められるすべての歓楽が得られる町」。そうペシャワールを表現した。

そう、ペシャワールはまるで宝石箱みたいな町なのである。

20代後半から海外で生活。ドバイで5年暮らした後、イスラーム圏を2年に渡り旅する。その後マレーシアで生活。

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