神を信じる者は本当に救われていた件

よく「神を信じるものは救われマース!」などというが、大半の人々は「そんなんどうせ嘘やろ」と思っているだろう。

しかし、本当に神を信じる者は救われていたのである。

これは決して、宗教の普及活動の一環ではない。

会社での解雇騒動ののち、チームビリヤニこと私が所属するチームのメンバーは、おののいていた。

・上司が解雇されるという衝撃=首切り処刑を見るぐらいの精神的苦痛に相当
・次に解雇になるのは自分なんじゃないか
・ 正当な理由なしに解雇されるのでは
・ 新たなサイコパス上司と一緒に働きたくない

各々思っていることはあるだろうが、だいたいこんな感じだろう。

しかし、チームの1名だけ様子が違った。動揺や不安をほとんど見せず、ひょうひょうと仕事をしている。

これはどういうことか。

「おめえ、こわくねえのか?次に殺られるかもしれないんだぜ」

彼は答えた。

「俺が怖いのは、神(アッラー)だけさ。サイコパスもクビになることも、会社の社長なんか、神に比べれば全然怖くねえ」

ひえっ!?

あまりの堂々ぶりに、こちらがおののいた。

イスラーム教徒としては、100点満点の回答である。本来ならば、私もこの世界観を共有していなければいけないのだ。

しかし、当の私と言えば、社長という肩書きや、サイコパス上司や、起こりうる不当なクビに震え上がるばかりであった。

そう、イスラーム教では、神の前では、人間はみな平等だという価値観がある。社長であっても、ホームレスであっても、礼拝所であるモスクではみな一列になって、同じ礼拝の動きをする。

イスラーム教徒が恐れるのは、死後の審判の日である。

神(アッラー)の前にたたされて、「おめえ、悪いことしたんか。地獄行きやな」だとか「立派に功徳をつんだやないかい。よくやったぞ。おめえは天国行きや」という判断を下されるのである。

日本人には、「は?」という世界観だが、現世の行いを神によって審査されると信じている人々は、結構いるのである。

事実、彼は信仰によって救われていた。

彼の世界には、私が抱く恐れは存在しないのだ。

20代後半から海外で生活。ドバイで5年暮らした後、イスラーム圏を2年に渡り旅する。その後マレーシアで生活。大学では社会科学を専攻。イスラエル・パレスチナの大学に留学し、ジャーナリズム、国際政治を学ぶ。読売新聞ニューヨーク支局でインターンを行った後、10年以上に渡りWPPやHavasなどの外資系広告代理店を通じて、マーケティング業界に携わる。

管理人をフォローする
内向型のつぶやき
シェアする
進め!中東探検隊