会社の不条理と社内政治に巻き込まれ、どん底に叩き落とされた話

これはある日突然、会社の不条理と社内政治に巻き込まれたリーマンが、体験した5日間の記録である。

暗黒の日曜日

ドバイでは金曜と土曜が週末にあたるため、一般的な会社は日曜日から始まる。この日が訪れるまでは、穏やかな日々であった。仕事や生活になんら不安を抱くことなく、仕事に邁進する日々である。

しかし、その平穏は突如として消え去ってしまうのである。

就業時間になっても、上司が出勤してこないのである。時間に正確で、なにかある場合は必ず連絡をよこす上司であったが、その日に限ってはなんの連絡もない。

かまわずミーティングの予定を入れても、すべて返信は「拒否」であった。何事かと思い、同僚に聞くと彼女はこう言った。

「ビリヤニ(上司の仮名とする)は、解雇されたのよ」

にわかには信じがたかった。先週までは普通に仕事を一緒にしていた上司が、なんの音沙汰もなく解雇されただと!?

そんなまさか。

勤務態度になんら問題があったとは考えられない。それがなぜ。まるで世にも奇妙な世界に入り込んでしまった心境であった。もはや仕事が手につかない状況である。

その日の午後、人事とビリヤニ、私を含むチームビリヤニが招集された。そこにいたビリヤニは、すでに私の上司ではなく、元上司になっていた。

解雇の理由は、役職が会社のチーム再編に不必要であるから、とのことだった。

しかし、チームビリヤニはすでに知っていた。それは本当の理由ではないと。本当の理由は、ビリヤニとビリヤニの上司、つまり私の上司の上司、の対立にあったのだと。

同時刻、別の人間も解雇されていた。理由はビリヤニと同じである。

ビリヤニの上司、ここでは仮に”80年代”ということにしておこう。なぜならオフィスでの格好が80年代のアメリカ映画に出てくる服装だからである。

人が突如解雇されることは、よくあることである。いずれにしても仕事ができない、だとかいう正当な理由がある。しかし、本件に関しては、いかにも個人的な理由が絡んでいるとしか思えなかった。

私が解釈するに、この件は2つのことを示唆していた。

1.80年代に反抗的な態度をとれば、いかに優秀で、成果を上げている人間でさえ、突如として解雇に追いやられる

2.人事を含めた会社の上層部も、この件には了承している。つまり、会社にとって本当に必要な人材を見極めることができず、逆にとんちんかんな80年代を会社にとって重要と考えている

さらに付け加えれば、当時の私は本件を脅迫ととらえた。これは、「おまえらも、いつ何度機でもクビにしてやるかんな」という暗黙のメッセージである。

すでにそこは不条理と恐怖政治がまん延する世界になっていた。

直訴叶わず

本件が発生した直後、私は社内でハイレベル役職につく人々に、田中正造のごとく直訴を行った。

この判断、本当に正しいんですか?
すでに80年代を理由に、優秀な3人の人間がすでに辞めている
80年代が示す戦略は、決して理論的なものではない
このまま放っておけば、会社にとっても損になる

しかし、反応はかんばしくなかった。なぜ不条理で正しくない判断に対して、誰も声をあげないのか。

いろんな不条理が去来した。

サウジのジャーナリスト殺害事件、イランでダンスを踊ったり、ホラーメイクをしたインスタグラマーが逮捕された事件、フセイン政府で命の危険を感じ、亡命せざるを得なかった人々などなど。

いかにジャスティスを求めても、多くの人は無関心で、耳を傾けることはなかった。無力感だけが残った。

記憶がほぼない2日間

直訴後は呆然とした。デスクでパソコンに向かうが、もはやどうしたらよいかわからない。

これまでまっとうな指示を出していたビリヤニに代わり、トンチンカンな発言をする80年代が君臨してしまったのだ。そして会社もそれを認めた。

何を信じればよいのか。

それはまるで終戦直後の人間宣言に似ていた。今まで神だと信じていた天皇が、我々と同じ人間だったのだ。

実際、神としての天皇がいなくなった後、新興宗教が多発したらしい。よるすべを失った人間は、何かにしがみつきたくなる。

そして残された我々の間にまんえんしたのが、ソマリアよろしくの無政府状態である。政府という国家の中枢が消滅すると、もはやそこはカオスである。もう仕事なんていう場合ではない。

ビニールハウスのような温暖な環境しかしらない私は、ひどく動揺していた。しかし、このことを年下のソマリ人同僚に話すと、彼は落ち着いていた。

「無政府状態か。まあ、あながち間違っちゃいないかもな。しかしなー、こんな状況なんて、屁みたいなもんだぜ。ソマリアの内戦とか、飢餓とかに比べりゃなんてことないぜ」

くぐってきた修羅場と、比較するスケールが違いすぎる。

ソマリ人の発言により、やや楽観的になることもできたが、それでもすでに精神が崩壊しつつあった私は、「PTSDじゃ!」と連呼していた。

もっともPTSDは、長期的に渡って症状が見られるものだ。よって、いうならば急性ストレス反応の方が適切である。

事実、ビリヤニを不条理な形で突然失った苦痛は、近親者の死に近いものがあった。他人からみれば上司がクビになったぐらいで、大げさなと思うだろう。

しかし、それが単なる仕事上での話ではなく、プライベート、将来、大きな生活変化(ドバイを1ヶ月以内に離れるとか)も絡んでくる話だったので、動揺したのである。

2日間、自暴自棄になっていた。もはや、会社も誰も信用することはできない。みな、己の保身しか考えていないじゃないか。そう痛感した。

猜疑心と恐怖と不安のミルフィーユの狭間にいた。

喪に服す期間は終わった

誰も信用できない、と思っていたが、どこの世界にも心優しい人はいるものである。

別の部署で働く1人のイギリス人同僚が声をかけてくれたのである。

「こんな状態になっちゃっているけど大丈夫?仕事抜けて、ワインでも飲みにいこか?」

昼間から酒を堂々とぶっこんでくるあたり、イギリス人である。

もはや誰にも理解されないという絶望に打ちひしがれていたが、「なんでも相談して!うちをビリヤニの代わりだと思ってくれていいけん」という心強い言葉には、やや救われた。

なんだか戦争孤児になった気分である。

動揺は冷めぬが、これを機に少し視界が開けてきた。この3日間ほど忘却していたが、自分は部下をマネージする立場にもあったのだ。

部下たちももちろん、「この先どうなるん?」と不安そうである。

いつまでもPTSDじゃ!などと抜かしてはいられない。いかにつらくとも、漂流教室のごとく、誰かが先陣を切っていかねばならないのである。

しかし、人望も交渉力も強い精神力も持たない私にとって、かけられる言葉はこれぐらいしかなかった。

「ええか。もしこの状況に不満や不安があるなら、ぜひとも転職活動を積極的に進めてほしい。それで新しい仕事が見つかれば、私の本望や。

仮にこの会社に残るとしても、それはそれでできる限りのサポートをする。その代わり、ぜひとも会社のリソースを自分のために存分に使ってほしい。幸いこの会社にはそれなりの環境が整っとるけん、次の仕事のためのスキルや知識を吸収するための場になる。

あくまで考えて欲しいのは、自分のこと。自分がどう生き残るかや」

などと言ったが、それはあくまで私の意思表明の確認にしかすぎなかった。

もしかしたら1週間後、1ヶ月後、私も同じ目にあうかもしれない。いくら80年代が口では、「お前たちは、大丈夫やけん」などといっても、不条理な理由で人を解雇する人間を信用することなどできようか。

ならば、いつクビ宣言をされてもいいという覚悟をして、今できることをやるしかない。

さっさと転職すればいいじゃん?と思うかもしれない。しかし、私はもうドバイでの転職を考えていない。ドバイで仕事を失うことは、この土地を離れることでもある。

しかしそれは悲しむことではない。

ソマリ人の同僚や、米軍を爆撃を受け母国のシリアを逃れ、ドバイにやってきた同僚に囲まれていては、そんなことはちっぽけなことなのだ。