赤の他人だった3人がひょんなことで出会い、噂のセックスクラブ、「キットカット」への同盟を組んでから、約1ヶ月。ついに決戦の日がやってきた。誤解のないように言っておくが、我々の目的はセックスではなく、テクノミュージックを楽しむという点にある。そしてキットカットの名誉のために言えば、れっきとした由緒あるクラブである。
———キットカット2時間前
現地集合ではなく、私の家にまずは集合して、体制を整えるというのが我々の計画だった。世界のクラブに行きまくっているというコロンビア人の売人もどきによると、「クラブでは踊って体力を消費するから、あらかじめカロリーを大量摂取しておいた方が良い」ということだった。
なるほど。クラブ素人にはありがたいアドバイスである。
というわけで、我々は近くのケバブ屋に繰り出し、エンジンを補給する。ブラジル人は、ケトジェニックダイエット中ということでパス。その後、家に戻りビールやらワインを飲みながら準備する。売人もどきが持ってきたフェルメールのナップサックを見ると、日焼け止めが入っている。
「なんで日焼け止めなんか持ってきたの?夜だからいらないじゃん」
「いやーだって、クラブ出る時は朝かもしんないっしょ」
「朝・・・てどういうこと?」
「キットカットは朝までやってるんだよ」
ほう。クラブといえば夜中限定だと思っていたが、朝までやっているものなのか・・・
ブラジル人のレザーハーネスの着付けを手伝ったり、売人もどきのネイルチップを貼ったり、文化祭みたいでなかなか楽しい雰囲気である。しかし次の瞬間、売人もどきの衣装を見て私は焦った。
ゴールドの海パンに上半身裸。そしてゴールドのサングラスと派手なネックレス。
どう見てもガラが悪いアメリカのラッパーである。
まずい・・・
こんなラッパー仮装では、キットカットに入れない。というか、ベルリンのクラブでは黒が常識だろ、と思いつつも、格好がおかしすぎてブラジル人と2人で爆笑してしまう。
「あっ!」
売人もどきが突然、叫んだ。
「今日のクラブのDJの名前覚えてる・・・?」
え!そんなの考えたこともなかった・・・
なぜなら衣装選びで頭がいっぱいだったからである。おまけに乳首問題でそれどころではなかった。その瞬間、神聖な音楽を聞きに行くという本来の目的を思い出した。そして、その大事な目的を、その瞬間まで失念していた自分を恥じた。
「バウンサーにDJの名前聞かれるかもしれない。それで知らなかったら、にわかだと思われて弾かれる可能性があるぞ!」
というわけで我々は慌ててDJの名前をYouTubeで検索し、音楽を予習する。人の名前がなかなか覚えられない私は、呪文のようにDJの名前を繰り返し呟いた。
よし準備は完璧だ。
気分は高ぶっていたが、それでも一抹の不安があった。
「こんなに準備したのに、クラブに入れなかったら悲しいよね」
そう。バウンサーに弾かれたら、一貫の終わり。
運命はたった数秒で決まる。
これまでの努力がすべて水の泡だ。
「知ってる?仏教では、不安を恐れるものは、未来を生きているっていう考えがあるんだ。俺たちが生きなきゃいけないのは、未来じゃなくて今だろ。仮にキットカットがダメでも、ベルリンには他にもごまんとクラブがあるから、問題ない」
おお、なんかすごいいいこと言ってる!と感心したのも束の間。次の瞬間には、
「この錠剤、小分けにしてくれるー?つけ爪で上手くできないんだよね」
とピンクでハイになる錠剤を私に手渡してきた。
ええと。あなた、ヤクブーツですよね?
これは触らなきゃセーフなやつかしらん。本当にベルリンでは、やべえブツが簡単に転がっているらしい。
「ベルリンで堕ちるのは簡単。堕ちるやつは、本当にどん底まで堕ちるんだ」
誰かの言葉を思い出した。
錠剤は売人もどきとブラジル人で山分け。私は手をつけないことで合意した。たとえチームメイトでも線引きは大事である。
我々は衣装に身を包み(というほどの布面積はないが)、3人で写真を撮ることにした。もちろん記念写真ではない。バウンサー対策である。万が一、バウンサーに弾かれそうになったら、「こういう衣装を着てるんです。クラブのテーマに合ってるでしょ。だから入れてください」と最後のあがきをするためだ。実際にこの手法は聞いたことがあるが、成功率は不明である。
しかし、キットカットに入るために、すべてにおいて我々は最善を尽くさなければならなかったのだ。たかがクラブというかも知れないが、我々は大いに真面目だった。それは一大プロジェクトでもある。私に限っては、ファッション研究を重ね、馴染みのないショップを歩き回りアイテムをそろえ、乳首問題で頭を抱え、この日を迎えたのだ。何が何でも弾かれるわけにはいかないのだ。弾かれたら発狂してやるぐらいの意気込みである。
持ち物はスマホと現金のみ。スマホはズボンのポケットに突っ込み、現金はブーツの中に押し込んでおく。これなら無くすことも、取られることもない。そして、身軽に踊れる。
ウーバーを呼びつけ、我々はキットカットへ出陣した。
当初私は、電車で行くのかと思っていたのだが、考えてみればクラブに電車で行くなんておかしなことだ、と2人と話していて気づいた。クラブ初心者丸出しである。
車中、我々は意気揚々としすぎていたせいで、
「これからキットカットに行くんですよー。入れると思います?というかキットカット行ったことあります?」
シラフなのに、運ちゃんにだる絡みをしていた。運ちゃんにしてみれば、知ったことか、だろう。しかし、フレンドリーな運ちゃんだったため、
「君たちならきっと入れるよ。もしダメでも大丈夫」
などと、応援されるのであった。
キットカットは、私が通う語学学校のほぼ真裏にある。私は昼間しかこのエリアに来たことがない。しかし夜に見るその場所は、見慣れた場所なのに、まるで初めて来たような場所に思えた。道をたった一つ隔てた場所に、見たこともない異世界が待っている。私はもう1つの世界に行けるのだろうか・・・
そしてタクシーから降りた瞬間、それはすでに始まっていた。