「今日で仕事やめます」。電話1本で即日退職した人に思うこと

いつもと同じように会社に出勤すると、サンドラが退職していた。サンドラは、会社の同じ部署に勤めるレバノン出身の同僚である。

「昨日の夜8時だぜ。サンドラから電話がかかってきて、今日で仕事やめますってさ。直接言わないで電話1本だけだぜ。も〜怒りで昨日は眠れなかったわ。まったくどうしてくれることやら」。イギリス人上司が激おこぷんぷんな様子で話す。

誰も知らない退職理由

それを聞いていた他の同僚たちは一様に驚きとともに神妙な顔つきをしたが、私だけは机を叩いて爆笑してしまった。どうにも私には人が笑わないようなところで笑ってしまうクセがあるのだ。

何がおかしいかって、昨日までは普通に出勤していた同僚が、翌朝には退職しているのだ。こんなことが通常起こりえるだろうか。あまりにも奇異な出来事なので、宇宙人が襲来したというような非日常的こっけいさに爆笑してしまったのである。

ぶはっ。そんなこと実際にあるんだ、と。

その証拠に、朝から社内はその話題で持ちきりだった。そんなおいしいゴシップネタが舞い込んだ日には、話に夢中でみな仕事が手につかなくなってしまう。

なにせあの社交的で明るいサンドラが、挨拶もなしに電話1本でやめてしまったのだ。はたから見れば、そんな無責任なことをするような人間ではない。そのギャップが、さらなるゴシップ性を産んだのである。

サンドラと仲良くしていた同僚たちさえもそれを知らなかった。彼らもまた私の上司を通じて彼女の退職を知ったのである。その時の面々といえば、朝起きたら母親が突然失踪していて、呆然とした子どものような面持ちである。

レバノン人だけは雇うな!

イギリス人上司はよほど腹がたったのか、同じ話を立て続けに他の同僚たちにもして共感やねぎらいを求めた。同じ話(しかも長い)を何度も繰り返してよく飽きないなと思うのだが、彼は非常におしゃべりなのである。おしゃべりすぎて余計なことも口走るのだが、今回も例外ではなかった。

「やっぱりレバノン人はダメなんだ。レバノン人は雇うべきじゃない」

人種差別スレスレの発言ではあるが、うなずけなくもない。イギリス人上司が長らくドバイで働いて得た教訓。それが「レバノン人は雇うな」である。決してレバノン人全員が電話1本で辞めるような人々ではない。みな、人としてはいい人たちなのだ。けれども、それが仕事となると「ひえっ?」と思うようなことが多々ある。

私はレバノン人というのは、他人に気を使い、集団を尊重する日本人からすると、仕事では一番嫌われるタイプだと思っている。

なぜレバノン人は仕事で嫌われるのか?

ベイルートを旅行中に出会ったオランダ人もレバノン人ビジネスマンに対してはあまり良い印象を抱いていなかった。レバノン系ビジネスマン=強欲といった印象を持っているようだった。その他にも、レバノン人はとにかく他人を蹴落としてでも自分をよく見せようとするだとか、嘘をついてまで自分をよく見せようとする・・・などとにかくボロクソに言われているのである。

彼らの言動は一見すると不可解なこともある。けれども、レバノンという国の歴史が彼らをそうさせているのかもしれない。

一時期は中東のパリとも呼ばれて、中東のリゾート地や金融の中心地として栄えていたレバノン。しかし1975年から始まった15年にも渡る内戦とイスラエル軍侵攻の結果、国民の多くが国外へ離散した。

内戦や母国を離れなければいけない、という経験をしてきた彼らにとってはそれ以上に怖いものはないのだろう。世界各地へ離散したレバノン人たちは、ここぞとばかりにビジネスを立ち上げていった。そんながむしゃらにビジネスに取り組む様子が、時には「強欲」などと呼ばれる所以なのかもしれない。

仏ルノーと日産のCEOをつとめたカルロス・ゴーン。ビル・ゲイツを抜いて世界一の富豪になったこともある「メキシコの通信王」こと、カルロス・スリム・ヘル。ベストセラー「ブラック・スワン」の著者ナシーム・タレブなどもレバノン系として有名である。

彼らはそうして異国の地で生き延びていったわけだ。もしかしたら彼らは常に「有事」のマインドで動いているのではないだろうか。それが「平時」である社会や「有事」を経験したことがない人間にとっては、違和感を覚えるわけで。

サンドラは確かにいいやつだった。イギリス人上司でさえもサンドラに対し「レバノン人は雇うなっていうスローガンを掲げてきたけど、それが間違いだったって証明してくれるよな」という期待すらかけていたのだ。

だからこそ、入社して1週間後に1週間の休みを取る(もちろんその間は無休)ことも大目に見たし、前々から予約していたという2週間の南米クルージング旅行(この間も無休)も許可したのである。

3か月の試用期間のうちサンドラが働いていたのは、2ヶ月だった。ん?と思いつつも、それを看過できたのはやはり彼女の人望だったのである。けれども、それがあっさりと誰もが予期していなかった形で裏切られた今、皮肉にも上司はやはり自分は正しかったのだということを認めることになった。

そして私もまた一層冷静にならざるを得なかった。

レバノンをふくめ大半の中東諸国はそこにいる人々も含めて好きだ。けれども、仕事になると彼らの文化やバックグラウンドを知っているだけに自分の仕事のやり方と余計に相入れないことを自覚してしまう。その国の歴史や文化には興味があるけど、仕事に対する観念が違いすぎるので一緒に働きたくはない。そんな相反する思いを抱いている。

「ちょっと今日はマジで一人で反省会するわ」。そうわざわざ宣言して、イギリス人上司はその日職場を後にした。

20代後半から海外で生活。ドバイで5年暮らした後、イスラーム圏を2年に渡り旅する。その後マレーシアで生活。大学では社会科学を専攻。イスラエル・パレスチナの大学に留学し、ジャーナリズム、国際政治を学ぶ。読売新聞ニューヨーク支局でインターンを行った後、10年以上に渡りWPPやHavasなどの外資系広告代理店を通じて、マーケティング業界に携わる。

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