旅をしながら暮らす自由な生き方は本当に幸せか?デジタルノマドの知られざる現実

SNSやネット上には、”旅をしながら暮らす”という生活スタイルが、一種のあこがれを持って紹介されている。満員電車で通勤し、忙しい会社員生活にへきえきする人からすると、少ない荷物で身軽に場所を移動しながら、好きな場所で働く。

なんとも夢がある楽しそうな暮らしである。会社員だった私も、そんなあこがれを抱いていた。

しかし、本当にそうなのか。

”旅をしながら暮らす”を実践した人間が、そんな”理想の生活”で直面したリアルな現実をお伝えしたい。

ただ、これはあくまでも私の一個人の体験である。私のやり方にも問題があったと思う。またデジタルノマドを実践した場所も、通常ではノマドの拠点としては、選ばれないトルコやエジプトである。

そうした点を踏まえて、読んでいただければ幸いである。

PC1台でどこでも働けるは本当か?

旅をしながら暮らすということは、旅をしながら働くということでもある。旅をしながら働いている人は、たいていパソコンで仕事をしている。IT系の仕事であれば、場所や時間を問わずに働ける。従来の仕事に比べれば、かなり柔軟な働き方ができる。

私も当初は、その言葉を鵜呑みにしていた。

しかし、現実は違った。

パソコンさえあればというが、実際には仕事をする上で十分なネット環境がなくてはならないし、きちんと仕事に取り組めるデスクやイス、そして十分な照度などが必要だ。

コロナ以前より、社員は全員オフィスに出勤しないという、フルリモートを実践していている会社がある。それがGitLabという会社。このリモートワークのパイオニア的企業では、リモートワークガイドなどを公開している。リモートワークに適した椅子や机、フットレストなどの選び方から、リモートで働く上での心構えなどを紹介している。

GitLabが公表しているリモートワークをスムーズに行う上での条件が以下である。ちなみにここでは一部だけご紹介しておく。

1.100MB以上のネット回線スピード、5GHzのWi-Fi、スマホでは4G、LTE、5G
2.グーグルハングアウトやズームなどのオンライン会議アプリを利用すること
3.スマホを持っていること
4.SlackやTrelloなどメッセージやタスク管理ツールを利用すること
5.ビジネス英語ができること

会社に通っていると、当たり前に用意されている環境である。しかし、旅をしていて気づいたのは、そうした環境を探すのが結構大変だということ。

私が今回旅をしたのは、トルコとエジプトである。トルコはまだ発展しているイメージがあるかもしれないが、それでもネット環境はそれほど恵まれていなかった。

スマホではネットが使えるが、パソコンだと使えないだとか、Wi-Fiが弱すぎてオンライン会議に支障をきたしたりだとか。無事に使える時の方が少ない。Wi-Fiが不安定だと、ストレスもたまる。時にはWi-Fiが弱すぎて、「明日の会議どうしよう・・・」などと、安眠を妨害されることもあった。

1~2週間おきに場所を移動していたので、その度にWi-Fi環境が整っているのか、仕事ができるデスクや照明があるのかを調べなければいけないのも一苦労である。

Wi-Fiがあるとうたう物件は多々あるが、その中でも仕事に必要なネットスピードがあるかどうかは、実際に入居してみないと分からないこともある。もはやロシアンルーレットである。

場合によっては、「ネットの回線スピードどれぐらいですか?」と事前に聞くこともある。しかし、1~2週間おきに毎回聞くのも面倒であるし、「ネット回線のスピードを聞くなんて変なやつ」とも思われたくない。

働く環境を見つけるだけでも、かなりの苦労なのだ。

というわけで、PC1台でどこでも働けると聞くとこんな風に考えていた。

「世界の好きな場所で働ける!」

思い描いた世界地図は、こんな感じだった。世界地図のどこでも働けるのだと思っていた。

しかし、実際には衛星写真のように、デジタルノマドが働けるのは、インフラやネット環境が整っている大都市に限られている。

「なんだあ、世界のどこでもじゃなくて、衛星写真で輝いているところだけじゃん」

エアビーやホテルでは、多くの物件がまだ滞在できればOKというスタンスで、リモートワーク環境に適した物件はそれほど多くないというのが実感である。

心安らぐ家などない

今や住む場所なんてエアビーだとかホテルだとか、選択肢はいくらでもあるじゃん?そう思っていた。けれども、”本当に自分が心落ち着ける家”はそこにはない。いくら高いお金を払っていい物件を見つけても、同じことである。

現地でのアパートや部屋を間借りできるエアビーであっても、そこは他人の家。常に、他人の家に住まわせてもらっているという緊張感が生まれる。

また国が違えば、家の勝手も大きく異なる。違う物件に入居する度に、その都度その家のルールに配慮しなければならない。

実際に私はエアビーで何度か過ちを犯している。日本ではトイレのティッシュを流すのが当たり前だが、世界の大半のトイレはそんな寛容な作りではない。

そのことを忘れて、とあるエアビーの物件でトイレを詰まらせてしまったことがある。これにホストが激怒。トイレを壊したとして賠償金を請求された。悪いのはこちらなので、謝り請求されたお金を振り込んだのだが、相手の怒りはとどまることを知らず。

しまいには、「あんたが注意不足なのが悪いんでしょ。この大嘘つき野郎め!」などと人格を否定されるような長文メッセージがその後も何度か届くようになった。単純に家を借りたつもりが、トラウマ的体験につながったのである。

またある時には、アパート全体でお湯の供給を共有しているシステムになっており、誰かがお湯のスイッチを入れると、別の家ではお湯が使えない、という謎のシステムを導入している家に当たってしまった。

ある時、お湯のスイッチをオフにするのを忘れたまま出かけてしまい、これまたホストを激怒させてしまった。「お湯はうちらの重要なインフラなんやから、もっと自覚を持ってくれよ」

そんな風に、お湯のことを考えたことがなかった・・・

インフラの整った日本式生活を海外でやると、時には自分が破壊神になってしまうのだということを学んだ(もしかしたら、私がルーズなだけかもしれない)。

同時に、ちょっとしたミスや不具合で、人格を否定されたり、ダメ出しを食らったりと、もはや踏んだり蹴ったりの状態である。

孤独の極地

私は数年前に人間関係を作ることも、持つこともやめた。もともと一人でいることが好きなソリタリーであったため、孤独に対する耐性は人一倍強いと自負していた。

ところがどっこいである。会社員を辞め、家にこもり一人で仕事をする毎日。リモートで働くがために、同じような境遇の人間と語り合えるチャンスもねい。

外に出ても、共通の言語を持つ人はおらず、「あー」とか「うー」とか原始人レベルのコミュニケーションしかできない自分がいた。

リモートの仕事上、一応バーチャル同僚なんぞはいるが、しょせんはバーチャル。仕事の話をするだけで、身の上を語り合う雑談なんぞしない。リアルな人間とつながっているのだが、そのつながりは、まことにバーチャルで綿飴のようにふわふわしている。

たどり着いたのは、孤独の極地であった。

旅をしていると、そもそも友達や知人を作ることが難しい。いや、旅の友達はできるかもしれないが、お互いに移動する身。1日会って、「はい、さいなら」みたいなこともザラである。そうした関係性では人間は安心できない。

人間は、もともと社交的な生き物なのだ。

そして、時に自分はどの社会にも属していないという絶望感にかられる時がある。

いかに個人が好きな場所で自由に暮らせるようになったとはいえ、国や税金といった多くの既存システムは、個人が特定の国に居住、所属していることを前提としている。そうしたシステムに対峙した時、移動生活のデメリットを感じるのである。

自由な生き方には呪いがある

旅をしながら暮らすこと。会社員生活をやめて自由に暮らすこと。無意識のうちに、それは素晴らしいことだと思い込んでいた。

なんでも自分で自由に決められることは素晴らしいことなのだと。

けれども、自由にゆえにストレスを抱えることが多かった。初めは、そんなまさか・・・と自由を疑う余地はなかった。

だって、あの素晴らしき自由だよ?

けれども、自由ゆえに人は苦しみ、不幸になることもあることを知った。

哲学者のサルトルの言葉にも「人は自由の刑に処せられている」というものがある。

実際に、仕事における自由度が高いフリーランスの方が、会社員よりもうつ病になる傾向が高いという人もいる。

会社員であれば、いい意味でも悪い意味でも、自分が手を下さなくても、何も考えずとも進むことが多くある。仕事は会社に行けば毎日あるし、給料がちゃんと振り込まれるだろうかという心配もない。

フリーランスは自由だが、それはありとあらゆることを自分で考え、処理し、手を下すことである。とても孤独で、不安なプロセスを伴う。

会社員であっても、フリーランスやリモートワーカーであってもうつ病になる人はいる。どちらがいいか悪いかというよりも、どちらにも良い点、悪い点があるのだ。

旅行も宗教

私はこうした旅をしながら暮らしす自由な生き方は、無意識のうちに、自分にとって良いこと、素晴らしいことだと考えていた。けれども、それらすべてが単なる思い込みと幻想と、実態をともわない空想だったということに気づいた。

イスラエルの歴史学者である、ユヴァル・ノア・ハラリは『サピエンス全史』で、今日の我々が海外旅行をして新たな経験を得たり、買い物をしたりするのは、旅行による経験やモノを消費することで、人生が豊かになるという”神話”を信じているからだという。

考えてみて欲しい。古代エジプトの富裕層が、新しい経験を得ようとか、生活からの息抜きにバビロンやエルサレムへ旅行しようと考えただろうか。もっぱら彼らが考えていたのは、いかに素晴らしいピラミッドを建設するかということである。

現代人がタワマンに住むことをステータスと考えるのと同じように、古代エジプト人にとっては大きなピラミッドを持つことがステータスだったのかもしれない。

結局のところ、それは神を信じる宗教と何ら変わらないのだ。

日本人は、無宗教だというがそれでも私から見ると、ずいぶんと色んなことを信奉しているように見える。アイドルを神だといったり、先祖の霊魂を信じたり、葬式や墓にものすごくお金をかけているし、普段は無宗教を装っているのに、葬式だけは宗教っぽくなっているのが不思議である。

正直なところ、私にとって同じ場所にずっといたり、日本にいることは退屈なことに思えた。せっかくの人生を生きる上で、ずっと同じ場所にいるなんてもったいない。新しい場所に行き、新たな経験を積むべきだ、と。

それは単純に私が旅行や新しい経験が、人生をもっと豊かにしてくれる、という価値観を強く信じて、動いていたからである。”旅行教”とでもいうべきだろうか。

今では旅をすることが決して、自分にとっての幸せではなく、逆に同じ場所にいても、日本にいても、幸せになりうるのだということを知った。

20代後半から海外で生活。ドバイで5年暮らした後、イスラーム圏を2年に渡り旅する。その後マレーシアで生活。大学では社会科学を専攻。イスラエル・パレスチナの大学に留学し、ジャーナリズム、国際政治を学ぶ。読売新聞ニューヨーク支局でインターンを行った後、10年以上に渡りWPPやHavasなどの外資系広告代理店を通じて、マーケティング業界に携わる。

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