トルコ絨毯の呪い。日本人が知らないトルコ絨毯の世界

––––––この記事を、トルコを訪れるすべての戦士たちに捧げる––––––

トルコを訪れた者には必ず通らねばならぬ道がある。トルコ絨毯を買うか否かという決断を迫られるのだ。

はあ?絨毯?

そんなもん必要ないね。

トルコを訪れる前は皆そんなことを思うだろう。そしてかくいう私もその一人だった。トルコ絨毯が有名なのは知っている。意図せずトルコ絨毯屋に連れて行かれたなどという話も聞く。

トルコ絨毯に翻弄された人間

そんなの絨毯屋に行かなければ済む話だし、そもそも必要ないものは買わなければいいのだ。

しかし、トルコ絨毯はそれほど甘くはない。今、私はトルコ絨毯を買うか否かで頭を悩ませている。1つのものを買うのに、こんなに悩んだことはない。必要ないといえば必要ないのだが、なぜか頭の中を絨毯が去来しまくっていて、頭から離れない。

なぜかくもトルコ絨毯に悩まされるのか。私の体験談をお話しよう。ちょっとばかし長くなるが、それこそがいかにトルコ絨毯に悩まされたのか、という証左でもある。

エフェソス遺跡のツアーに参加した時の話である。なかなか仕事のできる信頼できるガイドであった。そんなガイドとレストランで食事中、やはりトルコ絨毯の話が持ち上がった。

ついにキタ!

トルコ絨毯の噂は聞いていた。イスタンブールではまったくお声がかからなかったので、一体いつになったらトルコ絨毯屋に連れていかれるのか、と少し心待ちにもしていた。

こうして絨毯の罠にはまっていく

「絨毯など興味ないね。誰が絨毯屋に行くものか」というアンサーをしたためていたのだが、己の口から出てきたのは、「ほお、じゃあちょっと絨毯屋に行ってみましょうか」というものであった。

ガイド曰く、これから行く場所は単なる絨毯屋ではなく、絨毯を作っている工場だという。イスタンブールで売られている絨毯も、こうした工場から買い付けられたものなので、値段もイスタンブールで買うよりずっと安いという。それに政府が運営している場所なので、押し売りはないという太鼓判つきである。

トルコ絨毯の制作過程も説明してくれるというので、それならということで絨毯工場へ向かった。トルコ絨毯は、単なる伝統工芸品ではない。いや、伝統工芸品なのだが、絶滅の危機にある遺産とも言えよう。よって、政府が積極的に介入し、伝統を絶やさぬよう支援している。

絨毯づくりは時間がかかる。その上、賃金は少ない。そんな低賃金の仕事をやりがたる人間は少ない。一方で、田舎には仕事がない。ところが田舎から都市へ人々が仕事を求めて流入すると、都市に人があふれ、仕事が見つからなければ失業率が高まるし、犯罪に走るリスクもある。

そこでトルコ政府は考えた。

仕事がない田舎の女性に、絨毯の仕事を斡旋しよう。そうすれば、都市への流入も防げるし、田舎の失業率低下にもつながる。さらに、トルコ絨毯の伝統も守られる。まさに1石3鳥のアイデアである。

そうした田舎から送り込まれた人々が、絨毯づくりを学ぶ場所、それが今から我々が向かう絨毯工場であった。

すべて手作りの1点モノという恐怖

トルコ絨毯のおじさんは、一通り絨毯の作り方について説明してくれた。説明が終わると、実際に絨毯を見てみましょう、という流れになった。これは必然的といえよう。

そう、いかに買う気がまったくなくとも、見てみるだけという行為は、結局買う行為の一部でもある。


繭からシルクの糸を取り出す工程


フロリダの顧客から受けたオーダーメイドの絨毯を作る女性。海の生き物が描かれている珍しい柄だ。

おじさんは、子分を呼びつけ次々に絨毯を広げていく。絨毯は畳まれているので、品物をチェックするには、いちいち広げてみなければならない。

まどろっこしいのと、わざわざ重い絨毯を広げてもらうのが後ろめたくなったので、「カタログとかネットで見れないのか?」と聞いた。

「そんなもんはネイ!全部1点ものだし、カタログをネットにあげたら中国の連中にデザインをパクられるだろ」

放たれた言葉のトーン以上に、これは深い意味を持っていた。そう、手作りの絨毯はそのほとんどが1点ものである。1点ものということは、大量に出回っていないので、価格の見極めも難しい。

対する我々が慣れ親しんだ買い物習慣といえば、こんな感じだ。欲しいものはたいてい量産品である。よって、ネットでまずはレビューを確認。いろんなサイトで値段を比べて、結局どこで買うのが一番安いのか、を確認した上で買う。

しかし、1点ものな上、ネットにも情報はねい。情報のコートをまとっていた我々は、途端に素っ裸になったような不安感を覚える。

この価格は高いのか、安いのか。相場だといくらぐらいなのか。本当に質が良いものなのだろうか、うんぬんかんぬん。

絨毯の価格はどうやって決まるのか

絨毯の見極め方や相場というのは、事前に調べておけばある程度は分かる。

模様の細かさだとか、使われている染料が化学染料なのか自然の染料なのか。あとは、使われている素材がシルクなのか、ウールなのかといった要素も値段を左右する。

10分前は絨毯を買うことなど思いもしなかったが、見ていくうちに1つの絨毯が気に入ってしまった。

トルコ絨毯
気に入った絨毯

ポイントは、自然の草木で作られた色合いだ。赤はざくろ、緑はオリーブ、青はインディゴ、オレンジはバラの根、茶色はナスといったように。まるで絨毯の大地である。それに見る角度によって、色の濃度が変わるのも面白い。

一口にトルコ絨毯といえども、産地によって使われる色合いや、模様、デザインも異なる。

美しい絨毯を前に私は少し興奮していた。これってオシャンティな家にありそうな絨毯やん!いつか自分の家に飾ったらオシャレだろうな・・・とマッチ売りの少女のごとく、絨毯を前に起こりもしない美しい将来を見ていた。

値段は約20万円からスタートし、気づけば交渉の結果13万円まで落ちていた。買う気は無かったが、売られた喧嘩を買うように、振られた値段を交渉して行かねばならない。

普段なら60万円ぐらいで売るが、コロナ不況なのでこの値段なのだという。ちなみにここを訪れる観光客の多くが、欧米からのクルーザー客である。

それでも私が買う気を見せないので、「いくらなら買うんや」とおじさんがしびれを切らした。

「8万円かなあ・・・」

流石に安すぎたようで、おじさん一行もドン引きしていた。

安すぎるのはわかっていた。

「まあ、8万円になったとしても買うことはないね。8万円じゃあ、絨毯を作った人に対してリスペクトがなさすぎるじゃん?だからと言って、10万円以上の買い物を即決することはできない。これは絨毯だけじゃなくて、私のポリシーなんだ。だから買えない」

絨毯は、アンティークという概念があり、古ければ値段が上がるというシステムが適用されているらしい。

「さっき、おじさん絨毯は投資になるといったよね?例えば、車だとか、家だとか、投資商品をおじさんなら即決して買うかい?私ならじっくり考えるけど」

結局、何があっても買うことはないのだ。メビウスの輪のごとくである。

すべてのトルコ人は絨毯屋につながっている

そうこうしているうちに、再び絨毯に出くわした。パムッカレでの出来事である。ホテルのオーナーが、「親戚が作ったシルク絨毯なんだけど、ちょっと見てみない?今度、この娘の結婚式があって、絨毯を売って資金作りにするんだよ〜」という。

承諾すると、3点のシルク絨毯を私の部屋に持ち込み、「じゃあ、じっくりみていって。後でまた取りに来るから☆」といって、絨毯シンキングタイムを与えられた。

新手の訪問販売である。サイズが小さめなので、まあ買ってもいいかと一瞬思ったが、すべてシルク製でどれも3万円以上する代物だった。


おじさんが持ち込んだ絨毯3点セット

せいぜい5,000円ぐらいっしょと考えていた私には、高すぎた。「すまん、買えんわ」と告げると、オーナーは「他の宿泊客にもあたってみるわ」と残念そうにつぶやいた。

しかし、こんな高い絨毯を一体誰が買うのだろう。トルコの平均月収は8万〜10万円と言われている。外国人の私でさえ、ほいほいと3万円を出すのがためらわれるのだから、トルコ人からしても、たやすく買えるものではないはずだ。

出会ったトルコ人たちに聞くと、家には5~6枚ほど絨毯を所持しており、中には、祖父母の代から受け継いでいるものもあるという。まさに家宝である。おしゃれに部屋を彩るアイテム、という我々の感覚からは、程遠いものらしい。

それから1週間もしないうちに、私はトルコ中部の町コンヤの絨毯屋にいた。ガイドと話していたところ、やはり絨毯の話になる。このガイドも非常に親切な人で、「別に買わんでもいいで。見るだけで全然OK」というスタンスだった。

「そうか、買わなくてもいいんだ。見るだけ」

学ばない私は、再び絨毯に手をつけてしまったのである。

絨毯屋に来たものの、やることといえば絨毯を見るぐらいである。”見るだけ”のカタログはない。絨毯を広げ、”品定め”が始まる。前回と同じループである。


コンヤで訪れた絨毯のお店

オーナーは「どういう絨毯が良いのか」と客の嗜好を尋ねる。こちらも、それについつい答えてしまう。なんとなく気になった絨毯は、50枚以上重ねられている絨毯の下の方にあった。

その結果、そこそこ気になる絨毯が、発掘されてしまうのである。

おそらくこの店には、私好みのアイテムはないだろう・・・今回はこれで買わずに済むぞと思ったのに、これである。

作りや色はやや荒いイメージを与えたが、絨毯の意味深なキャラクターが気になってしょうがない。

なんだこの謎の生命体は!?


顔はピンクで体は黒い謎の生命体。地球上に存在するのか?


謎の生命体が集合した絨毯。伝統的な色合いをガン無視し、ビビットカラーで彩られている。

結局その場では、絨毯のデザインは気に入ったがやや汚いので、クリーニングした後に最終的に決断させて欲しいということになった。

なんだこの展開は。

そもそも、絨毯なんぞ私の人生に必要なのだろうか。

否。

今まで自分の家のために家具や調理器具などを買ったことがない。住んできたのは、シェアハウスだとか、家具付きのアパートホテルである。今でさえエアビーだとかホテルでしのいでいる生活である。

マッチ売りの少女のごとく、未来の”おしゃれな自分の家”を想像したところで、それは幻に過ぎない。日本で家を借りるほどの信用もなく、定住予定がない人間である。

どう考えても必要性はないのだが、どうしても買いそうになってしまう。

絨毯とは一体なんなのか。

己の生活にとって絨毯は何を意味するのか。

そして絨毯は、星の数ほどある。星と同じく、色合いも大きさもまちまちだ。そして値段も様々。何が相場なのか、適正価格なのか。真実はブラックホールのごとく謎に包まれている。考えてもキリがない。

絨毯とは、すなわち宇宙なのだ。

そしてこの1ヶ月。私はどれだけ絨毯のことを考えてきただろうか。そして、トルコ絨毯について長々と記事を書いているこの時間。人生でこれほど絨毯と向き合ったことはない。

必要のないものは買わない。検索すらしない。考えもしない。

日本であれば、それで終わったではないか。

しかし、次々と迫り来る絨毯野郎と1点もの絨毯との一期一会との出会い。全てのトルコ人は、絨毯屋につながっている。

これは、トルコ絨毯の呪いではないのか。

トルコには2つの呪いがある。

特に猫のことが好きでなくても、たちまちキャットフードを買って、猫をお世話してしまうという猫の呪い。そして、欲しくも必要もない絨毯のことを、延々と考え、気づけば絨毯屋に移動してしまうという、絨毯の呪い。

いくら絨毯など買うものか!と強い意思を持ったところで、呪いには勝てないのである。

結局、絨毯を買ったのか?

絨毯のクリーニングが終わったということで、数日後に同じ店を訪れた。すでに腹は決まっている。クリーニングして綺麗になろうが、やはり絨毯は私の人生に不要なのだ。

断ろう。

「すんません、やっぱり絨毯買うのやめますわ」

そこはマイナス50度の世界が広がっていた。なんだなんだ。断った瞬間、極寒の沈黙が店を包んだ。その寒さに耐えられず5秒後。

「やっぱ、買いますよお!」

そして春が訪れた。

正直、もう絨毯が欲しいのか、欲しくないのかよく分からなくなっていた。デザインは好きだが、人生には必要ない。しかし、この謎の生命体の絨毯に出会うことは、もう一生ないだろう。買うなら今なのだ。

しょうがない。これはもう、トルコ絨毯の呪いなのだ。

追加の50ドルで日本まで配送してくれるということだったが、私はあえてそうしなかった。カバンに絶対入らない、このトルコ絨毯を常に持ち歩くことで、呪いの重みを嚙みしめよう、と決心した。

正直いらないと思ったが、絨毯おじさんは、絨毯の”証明書”なるものもつけてくれた。よく見ると、そこには「ペルシャ製ソマック」と書かれていた。

ひえっ!?

トルコ絨毯の呪いではなかったのだ。

絨毯を買う人に向けて

迫り来るトルコ絨毯に対し、幾度も考えた。トルコ絨毯とは何なのか。そして、どうやってその価値を見極めればいいのか。人生で、もっとも長く絨毯と向き合った期間だと思う。

その間、色々とネットで調べて知識武装などもしたりしてみた。あれこれ考えすぎて、半ば発狂しそうになってしまった。たかが、絨毯を買うだけなのに。

トルコ絨毯との戦いを終えた今、未来の戦士たちに伝えたいのは2つである。

・デザインが気に入ったものか
・その値段に納得できるか

この2点をクリアすれば、買ってよしである。ノット数がどうのとか、素材がどうのなどと考え始めたら、キリがない。絨毯は宇宙である。宇宙を完全に理解することが難しいように、絨毯を理解するのも難しいのだ。

もしも、絶対に絨毯なんぞ買うものか!という鉄の意志があれば、決して興味本位でも、絨毯屋に立ち寄ってはいけない。

20代後半から海外で生活。ドバイで5年暮らした後、イスラーム圏を2年に渡り旅する。その後マレーシアで生活。大学では社会科学を専攻。イスラエル・パレスチナの大学に留学し、ジャーナリズム、国際政治を学ぶ。読売新聞ニューヨーク支局でインターンを行った後、10年以上に渡りWPPやHavasなどの外資系広告代理店を通じて、マーケティング業界に携わる。

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