世界最恐レース!?ソマリアのマラソン大会がスゴすぎた

マラソンができるというのは、社会が平穏な証だと思う。

布切れしかまとっていない市民が、20キロや40キロという長距離を走るのだ。爆弾テロや狂った人間がいきなり乱入してくる可能性をはらんだ場所では、決して行えない。

だからこそ、ソマリアの首都モガディシュでマラソン大会があると知った時は、「狂ってる・・・」としか思えなかった。

リアル北斗の拳と言われた、あのソマリアである。

外国人も観光やビジネスでソマリアを訪れることはできるが、自由に歩くことはできない。外出する時は、必ず車に乗り、銃を持った護衛団(最低4人は必要)と共に移動しなければならない。

車から出ようものなら、身代金目当ての悪党に誘拐されるのがオチらしい。ある意味、ソマリアは猛獣がうろつくサファリパークである。


ソマリアの観光スタイル。外国人は車で移動。必ず銃を持った護衛と行動を共にする。

ソマリアでは、フツーに外を歩くことさえ許されないのに、マラソンとは一体何事か。護衛団とともに走るのか。それとも、護衛なしでも外を出歩けるまでに治安が回復したのだろうか。

その実態を確かめるべく、私はソマリアのマラソンに参加することにした。

それは突然にやってきた

1月末日の深夜。私は中東・東アフリカへの旅に出るため、東京の空港にいた。普段ほとんど見ないフェイスブックをチェックしていると、とある投稿が目に入った。

「ソマリアのモガディシュマラソンツアー、3月に開催予定。残り1席!」

投稿者は、私がイラクやソマリア旅行で世話になっている、アンテイムド・ボーダーズと言うイギリスの旅行会社だ。

マラソンという文字を見た瞬間、反射的に投稿をクリックし、ツアー予約を済ませている自分がいた。その間、5分も経っていない。

残り1席と言われたら、迷っているヒマはない。それに、2月にちょうどソマリランドでマラソン大会を控えている。どうせソマリランドでも走るのだ。ソマリアでもついでに走ってしまえ、という発想である。

「あら、これもいいわねえ。2割引きだし、ついでに買っちゃお♪」という、主婦がよくやるついで買いのようなもんである。

予約を済まし、あらためてマラソン大会について簡単に調べてみると、以下のような情報が浮かび上がった。

・マラソンが開かれるのは今年で3回目
・今年のマラソンはハーフマラソンのみ(10キロや42キロのフルマラソンはなし)
・2018年の大会ではレース終了後に爆弾テロが発生

・・・

テロはともかく、私の最大懸念事項は、この時点で10キロしか走れないということであった。レースまでは1ヶ月ちょい。果たして、21キロも走れるのか・・・

しかし、すでにツアーの前金も払ったので、やるしかないのである。

そして、このマラソン大会。どうやら闇雲に行われるものではなく、れっきとした意味があるものだった。

モガディシュマラソンの正式名は、「サミア・ユセフ・メモリアル・ラン」。若くして亡くなったソマリ人オリンピック選手の追悼レースである。

サミアは1991年生まれで、2008年の北京オリンピックに短距離走選手として出場。しかし、2012年リビアからイタリアへ行くため、地中海をボートで移動していたところ、事故で溺れて亡くなった。享年21歳。

彼女はイタリアでコーチを探すつもりだったという。

オリンピック選手でありながら、悲劇の死を遂げたサミアの生涯は、”An Olympic Dream”という本にもなっている。

コロナウイルスを警戒するソマリア

私がマラソンへ行くことを決めた時、ちょうど日本や中国でコロナウイルス感染が広がり始めた時期だった。

「ここ数ヶ月の間で、中国本土を旅行した人は申し出てください。コロナウイルスの影響で、ソマリアに入国できない可能性があります」

アンテイムド・ボーダーズからのメールである。

メールが送られてきたのは2月初旬で、感染拡大の初期だった。感染者も日本や中国と限定的で、ヨーロッパや中東の人々は、その恐怖をみじんにも感じていない頃である。

コロナウイルスよりも排除するものは他にあるだろ・・・

コロナウイルスよりも、過激派組織アル・シャバーブの方がどう考えても危険である。

けれども、後々に振り返ってみるとソマリア政府は世界各国に先駆けて、めちゃくちゃ早い対策をとっていたのだと感心することになる。

ソマリアが中国本土からの入国規制を発表してから、約1ヶ月後。ヨーロッパや中東をはじめとする各国が、一斉に入国規制を出し始めたのである。

妙に危機管理の高いソマリア政府。是非ともそれを、テロ撲滅に使っていただきたいところである。

ソマリアのマラソンに参加する人ってどんな人?

2016年にソマリアのモガディシュを訪れ、もはや2度と来ることはないだろう、と思っていた。しかし、再びこの地に舞い戻ってきたのである。

ソマリアは治安以前に、行くのにお金がずいぶんとかかるのが悩みのタネである。今回も前回と同じく2泊3日で約20万円コースである。

無職のお財布には、テロ並みの破壊力だ。

マラソンの前日にモガディシュ入りをし、簡単に観光を済ませ翌日のレースに備えるというのが、プランであった。2回目のソマリアともなると、どうも感動が薄い。

初めての訪問で感じた、あのドキドキやワクワク感は完全に薄れている。それに、どうもソマリアに来すぎているような気もする。

ソマリランドに2回、プントランドに1回、ソマリアに2回。ソマリランドもプントランドもソマリアとして考えれば、5回も来ていることになる。どうりで何も感じないわけだ。

できれば、これで最後にしたいところである。

数年ぶりのモガディシュにやってきたが、あからさまに町が復興しているのが、分かった。

空港の前には、真新しい空港ホテルができているし、アミソム(アフリカ連合ソマリア平和維持部隊)のいかつい戦車も走っていない。

町中には、東南アジアではおなじみのトゥクトゥクが大量に走っていた。

今回は団体ツアーで、私の他に10名ほどの参加者がいた。ソマリアという場所柄、危険地帯ジャンキーみたいなやべえやつばかりかと思いきや、そうでもなかった。

単純に世界各地のマラソン大会に参加している人や、旅行の達人みたいな連中の集まりであった。アンテイムド・ボーダーズが主催しているアフガニスタン・マラソン経験者もちらほらいた。

イラク旅行の時と同じく、ほとんどの国に旅行してしまったり、やることをやった上で、「他に残っている場所といえば、ソマリアぐらいか」という感じである。

人生観が少々変わる。イラク旅行へ行く人はどんな人なのか?

出身国は様々だったが、モスクワで大使をやっているアメリカ人に始まり、スウェーデン、ノルウェー、イタリア、ドイツといったいわゆる経済的に豊かな国からやってきた人々であった。

健康だとか、達成感のために何十キロも走るなんて、誰もができることではない。

マラソンというのは、豊かな生活を送る人間のみに与えられた特権なのかもしれない。これは、マラソンだけでなく、旅も同じである。

旅先で大体出会うのは、大体ヨーロッパだとか、北米の人々である。中南米や中東、アフリカの人々に出会うことは、ほとんどない。

世界の多くの人は、日々の生活を送ることで精一杯なのだろう。自分探しや見聞を広げるための旅は、ある意味でぜいたくなことである。

よみがえるドーハマラソンの悲劇

スタート地点として、我々が送り込まれたのは、モガディシュ空港裏の倉庫街である。ドラマなんかでよくある、ヤクザの抗争や殺人が行われるような倉庫街が、今回のレースの舞台である。

アルシャバーブもまさか、こんな倉庫街でまことしやかに、マラソンレースが行われるとは思いもよらないだろう。

いや、むしろその盲点をついた結果かもしれない。2018年にマラソンを町中でやって、爆弾テロが起こったことの教訓だと思われる。

スタート地点に着いた時、そこには誰もいなかった。

そりゃそうだ。レース開始は朝6時半なのに、現在の時刻は6時45分である。

我々は現地のフィクサーに言われた通り、6時にホテルのロビーに集合した。ホテルからレース会場までは、10分もかからない場所にある。

けれども、なんやかんやあって、たどり着くのに45分もかかってしまったのである。

レース会場に着く前、車からはすでに走っている人が見えていた。けれども、参加者たちは、それについてあえて触れようとはしなかった。

同乗していたアメリカ人は、「職場で、女性デーのお知らせがメールで来てさあ。プレゼントのために60ドル徴収するとかいうんだぜ。高すぎるっしょ。まあ、スルーしたけど」という、どーでもよい話で場を和ませようとした。

もぬけの殻となったレース会場で、我々は誘導されるがままに、ゼッケンを渡され、スタート地点に集まる。

スタート地点
人がいないレースのスタート地点。ここで走るの・・・?

ソマリアマラソン受付
マラソン受付場。米軍みたいな人が受付していた。

「9時以降になったら、レースは強制終了すっから」

ビーチバレー選手みたいな風貌をした、運営メンバーと思しき男性による宣告である。9時以降は、とにかく暑いので強制的にレースを終わりにするという。

私のハーフマラソンの記録(練習で1回しか走ったことない)は2時間30分。しかし、今回課されたハーフマラソンの制限時間は、2時間15分である。

・・・

間に合わないじゃん?

しかし、ここに来てしまったのだ。もはやそんな不安を感じているヒマなどない。

ゼッケンをいそいそとつけ、運営メンバーからのルート説明を受け、参加者たちは一斉に走り出した。もう何が何だかである。

マラソンの説明を受ける
マラソンコースの説明を受ける一行。ピンクのシャツを着た人が運営メンバー。


ソマリアマラソン。みんなで走れば怖くない

しかも、7時前だというのにクソ暑い。朝6時に確認した時点で、気温28度、湿度70%であった。

棄権者が続出した、あのドーハマラソン状態やないか。

2019年にカタールの首都で開かれたドーハマラソンは、深夜0時に開始されたが、それでも気温は32度、湿度74%であった。棄権率は4割である。

高地に位置するソマリランドのハルゲイサとは違い、海に面したモガディシュはとにかく湿気が高く暑い。

ソマリランドのジムで走っていた時、一度だけ30度を超えた日があった。その時は、いつもなら軽く10キロ走れるはずなのに、体がだるく2キロも走れない状態になったのを覚えている。基本的に、気温30度以上になったら、マラソンは中止である。

さらにこちとら、イスラーム教の国でのレースだと思って、ヒジャーブをかぶり、肌の露出を抑えた長袖ジャケット、スパッツスタイルである。すでに、一人サウナ状態だ。

とりあえず、ヒジャーブと長袖ジャケットは脱いだが、それでももっと軽装にすればよかったと思う。

こんな具合なので、すでにタイムなどもうどうでもよくなっていた。目標はとりあえず、完走である。

ひとりマラソン大会

スタート地点から200メートルもすると、一緒に走り出した参加者の姿も見えなくなった。

まさかの最後尾で走ることになるとは。

いかにもマラソンやってます!という雰囲気な人も多かったし、私以外は全員男性であった。おいていかれるのも仕方がない。とにかく、ペースを乱さないようにしなければ。

しかし、1キロもしないうちに、何かがおかしいと気づくのである。

人がいない・・・

倉庫街という場所柄か、観客がまったくいないのである。いるのは、レースの誘導係と救急隊だけである。

誘導係といっても、慈愛に満ちたボランティア市民ではなく、迷彩服を着てAK48を持った現地の雇われ軍人もしくは、やけにテンションの高い欧米の軍人なのである。

ボランティアというより、マラソン大会の治安維持という仕事の一環でやっているのだろう。

はじめこそ人がいないのは、我々のスタートが遅れたからだと思っていた。けれども、行けども行けどもマラソンっぽいことをしている人がいないのである。

いたのは、もはやレースなどどうでもいいのか、音楽をかけ、くっちゃべりながら歩くヨーロッパ人グループや、ヨーロッパのビーチにいそうな上半身裸で走る欧米人である。

給水ポイントにいたのは、クラブミュージックをガンガンに流して、くねくねと踊りながら、給水するロシア系セクシー美女。

クラブと化した給水ポイント
クラブと化した給水ポイント。給水ポイントにセクシー美女がいる。救急車がやたらといかついのはなぜだろうか。

いいぞいいぞ、その調子だ!と流暢な英語で、いかつい軍人からの声援を受ける。現地のランナーは数人で、その他の参加者は、みな欧米人ばかりだった。

何ここ・・・

そこはもはやソマリアではなかった。

 

マイアミである。

感動と絶望のあいだ

これがソマリアマラソンの限界だったのだ。危険すぎるがゆえに、町でマラソンを行うことは不可能。

倉庫街というマラソン会場としてはトリッキーな場所を選び、観客を一切排除し、軍人たちが護衛してやっと、マラソンができるのだ。

暑さで頭がもうろうとする中、一人走る私は思った。

なぜ私はこんな場所を走っているのだろうと。

本来なら中止になってもおかしくない暑さ(ソマリ人の選手が途中で倒れていた)。10メートル以上の砂丘を上り下りする激しいコース。応援してくれるのは、誘導係の軍人だけ。


レース最大の難所。砂丘。もはや歩くしかない。


砂丘を越えると見えてきたモガディシュの町

参加者が少ないあまりに、ほぼ一人で走っている状態(のちに判明したが、ほとんどの人が10キロコース参加者だった。10キロコースあったんじゃん!)。人がいなさすぎて、コースを2回も間違えた。

こんな場所で一人走っている自分は、アホなのかもしれない。そんな風にすら思えてきた。

レースの大半はそんなことを考えていた。けれども、海が見えるコースに差し掛かると、感動せずにはいられなかった。

14世紀に活躍したモロッコの大旅行家イブン・バトゥータや、教科書でもおなじみのヴァスコ・ダ・ガマ、中国出身のムスリム、鄭和など、名だたる人間たちが、このモガディショの海を見てきたはずなのだ。

モガディシュの海
モガディシュの海を眺めながらのレース

今でこそ、内戦だとかテロというイメージがついてしまったモガディシュだが、大航海時代以前は、船乗りたちの寄港地として知られていた場所である。

モガディシュの地を自分の足で踏んでいる、という体験も貴重であった。なにせ町中では車移動が必須。己の足で赴くままに、ソマリアの土地を駆け巡ることは許されない。

人間の観客はいなかったが、レース中に和ませてくれた可愛らしい動物もいた。

野良ワンコとマングース軍団である。モガディシュの町には、イスラーム教徒の町でありながら、ワンコが多くうろついている。

マングースは、4本足で歩きますよ、と見せかけて時々2本足で立つというギャップが愛くるしさのポイントである。

ソマリアマングース
ソマリアのマングース。近くにワンコがいるので、固まって警戒している。タイムはもはやどうでもよいので、積極的に写真を撮りに行く

レースが始まってみれば、アルシャバーブやテロよりも、熱中症にならないかの方が心配であった。レースにも遅刻するし。こんなん走るの無理やん、と思うような砂丘が出現したり。

けれども、フタを開けてみれば、20キロレースを完走できた。こんだけ過酷な条件だったにも関わらず、タイムは2時間29分53秒。

1周5キロのコースを4周するというレースの都合上、正確にはハーフマラソンではなく20キロレースとなっていたが、それでも練習時よりもペースは、だいぶ早い。

すでに他の参加者たちは、ゴール地点で休憩していた。それでもいいのだ。20キロ完走したのだから。最後は、アメリカ人とハイタッチで締めた。

このレースばかりは終始、欧米人のテンションの高さに救われた気がする。なにせ、観客も走ってる人もいないのだ。孤独が好物な人間とはいえ、ほぼひとりぼっちのマラソン大会は、どこか寂しかった。

20キロを走り終えたあと、そこにはスタート時と同じく、人気がなかった。10キロコースの参加者は早々に引き上げてしまったようである。

大会後に、ささやかな表彰式が行われた。表彰式というか、記念撮影会である。参加者のタイムや順位を記録しているわけでもないようなので、とりあえず真っ先に帰ってきた人にトロフィーを贈呈するという仕組みらしい。

ソマリアマラソン記念撮影
マラソンは国連主催で、参加者の多くが国連職員だった

あれは本当にマラソン大会だったのだろうか。確かにマラソン大会という体ではあったが、それは通常のマラソン大会とはほど遠いものだった。

ソマリアでマラソン大会は、まだ早すぎたのだ。

けれども、ソマリアでマラソン大会が開かれた事実は変わらない。マラソンとは無縁と思われた、あのソマリアである。かつて世界は、ソマリアを無政府国家、世界最恐の国だと言った。

ヨーロッパや日本でも行われるマラソン大会(っぽいもの)が、ついにソマリアで開かれるようになったのだ。ソマリアが復興の兆しを見せている証拠だろう。

20年近く続いた内戦、無政府状態という失敗国家ソマリアのイメージを払拭する日も、そう遠くはないかもしれない。

20代後半から海外で生活。ドバイで5年暮らした後、イスラーム圏を2年に渡り旅する。その後マレーシアで生活。大学では社会科学を専攻。イスラエル・パレスチナの大学に留学し、ジャーナリズム、国際政治を学ぶ。読売新聞ニューヨーク支局でインターンを行った後、10年以上に渡りWPPやHavasなどの外資系広告代理店を通じて、マーケティング業界に携わる。

管理人をフォローする
ソマリア
シェアする
進め!中東探検隊