さらば広告代理店生活。リーマンの苦悩と労働者としての敗北

最後の2週間は引き継ぎやらで目まぐるしかった。流暢にラマダン規制にあわせて6時間働いて、帰宅後はジムでジョギングにいそしむという生活とはかけ離れていた。

そんな中で常々感じていた違和感やら不満が一気に再来したため、ここに書き残しておこうと思う。


ドバイの広告代理店で働いていた生真面目リーマンはいかなるフラストレーションや苦悩を抱えていたのか。

オフィスに朝一番にやってきて一番最後に去る生活

今まで一人でこなしてきた仕事が素人2名を含む計4名に引き継がれることになったことで、軽く労働者としての敗北を覚えた。

それはつまり1人あたりの仕事量が膨大すぎたということを黙認することであり、そのような仕事をつまらん責任感からすべて引き受けてしまったことに、自分の権利、主張力の弱さを感じる。

依頼されたら、文句を言わずにやる。こんな思考からまだ抜けきてれいない。

日本であれば、上司や会社からの業務は有無を言わずに引き受ける。「業務が多すぎます。減らしてください」なんてとんでもない。

そんな空気が支配する労働環境から、「会社との契約範囲における就業時内で働けばよし。会社の仕事のためにプライベートを犠牲にするなんてアホすぎる。仕事が多ければ通常の水準の量にしてもらうために徹底的に主張する」、といったように会社と労働者の契約を念頭に、労働者としての自分の権利を徹底的に勝ち取る、といった姿勢の連中が多い環境の中でジレンマを感じていた。

まるで鬼軍曹のごとく引き継ぎ書について事細かく指示する同僚や、人不足のため、引き継ぎを受けるものの中には、その分野においてのまったくのど素人もいる。

であるから、素人につきっきりで初歩的なことを説明し、素人から玄人レベルに引き上げなければならないのである。

管理職たちによれば「彼女はちゃんとやり方を知ってるよ」とはいったものの、ふたをあければてんで素人レベル。

しかもたった2週間弱で専門的な業務の「引き継ぎ」を行わなければならない。管理職たちの引き継ぎ者選定や部署間での人材配置の偏りにやや不満を覚える。

そんなわけで、社内教育と引き継ぎ書の作成に終われ管理職でもないのに、就業時間中に自分の業務を進める時間はほぼ皆無となった。

それゆえに、皆がやってくる就業前、もしくは皆が帰った後に自分の仕事を進めることになる。

気づけば朝一番早くやってきて、一番遅くにオフィスを後にする人間になっていた。

朝一番にやってきて、一番早くオフィスを後にするという日本での華々しい生活を考えれば、事態は屈辱でしかなかった。

自分がもっともなりたくない姿になりさがなりながら、けれども生来の生真面目さゆえに他人に押し付けてまで自己の業務減量化を図ることは避けたい、それであれば自分がやる、という自分が押し付ける責任感からのジレンマ。

さらには、仕事よりもプライベートを優先、仕事を理由にプライベートの用事を断ることなど皆無なドバイの労働環境において、仕事まみれにならず自己の私生活の充実も図らなければならんという概念のプレッシャーもある。

デリバリー感覚で仕事を依頼

仕事の効率化を進める上でも、この業務は本当にやる必要があるのか、「なるはや」と言うが本当になるはやで進める必要があるのかを考える必要がある。

他人に無駄な業務をさせて他人の時間を無駄にさせない、もしくは他人へ業務を依頼する時には、依頼された側の労力が最小限になるように努める。

これは社会人にとって一緒に働くものへの配慮だと思う。そのためには、あらかじめ業務の流れを逆算し、余裕をもって仕事の依頼をすべきだ。

けれどもドバイにおいては、誰もが認めるようにギリギリで決める人間が多い。

仕事のみならず、旅行やイベントへの参加もすべてギリギリで決める。1、2週間前に遊ぶ約束をする、飲み会をセッティングするという習慣もない。大体は今日、もしくは明日で、という決定方法がとられる。

であるからこちらの業務依頼の8割は当日依頼で当日提出、もしくは「今すぐ」なのである。

毎日が、「今すぐ」の依頼ばかりでは1日の仕事量を管理することも難しい。たいした用事でもないのに「今すぐ」といって他人の仕事の流れを妨害することになんら躊躇さえない。

まるでデリバリーサービスのように頼めばすぐやってくれる、という感覚らしい。

口では「今すぐ」といっても、実際は数日待ってもらってもOKな場合がある。

それを理解し、こちらのスケジュールに則って数日後に提出するといった調整をすることができるようになるのにはある程度の時間を要したが、言葉の意味をそのままとらえてしまうととんでもないことに陥る。

自分の時間を奪われることへの猛烈な反発

もっともフラストレーションが溜まるのは、無駄なことで他人の時間を奪うやつである。

無知であることは構わない。けれども己が無知だと知り、真摯にそれを知る者の意見に耳を傾けるべきである。

己の無知を振りかざして、まったく根拠のない因縁をつけ、まともに仕事をやろうとしている人間の仕事を邪魔するのはいかがなものか。

しかも当人にとってはそれが仕事だと思っているからたちが悪い。それが本質的にビジネスに関わる問題なら徹底的に付き合う。

けれども瑣末なことばかりを毎日とりあげ、一向に本質的な仕事が進まないというのは愚かである。

主張が強く、間違った主張をしても決して非を認めない。

やたらと根拠のない因縁をつけたり、チームのメンバーが失敗すれば、「なぜ失敗したのか」「なぜそうしなかったのか」といった非難ごっこが始まる。

この大人による非難ごっこは、まったく楽しくないし精神、時間、労力ともに無駄にするだけである。

過去に起こった変えられない事実を論ずるよりも、いかにして今後同じような過ちを繰り返さないようにするか、という予防策を考えてさっさと次に進むべきだろう。

このように他人の時間(おそらく自分の時間に対してもだろう)にたいして非常に鈍感な人間が多く、そうした連中はどーでもよいことで他人の時間を強奪していることに気づいてすらいないのだ。

目に見えるモノを他人から奪えば窃盗罪になるのに、目に見えないモノは無形さゆえか立証しづらく罪にはならないのが不思議だ。

もっとちゃんとした仕事をしたいのに、終始こうした無知による妨害や幼稚な非難ごっこばかりでまともに仕事ができない。

時間は限られているのに、くだらないことに時間を費やして日々は過ぎ、ビジネスはおろか、自己すらも成長していないことに気づき愕然とした。

いや、まったく成長していないというよりも、本来であれば一定の時間を投資すれば得られたであろうものにまったく至っていないという焦りである。

食べていくための金さえもらえればいいのではない。そこに自分の貴重な時間という資源を投じて、労働を提供しているのである。そこにはお金以外の見返りを期待している。

金の流れが決める絶対的な主従関係

この代理店生活を通して、しばしば広告代理店というのはクライアントの広告投資を最大化させるために存在するのではなく、クライアントの「命令」に従う小間使いのようなものであるということを思うようになった。

お互いにビジネスの効果を最大限にするパートナーではなく、金を出しているのだからこっちの言い分を聞くのが当然だろう、という主従関係が暗黙のように存在する。

日本での広告代理店経験からするとクライアントと代理店は、パートナーとしての役割が大きかったものの、こちらは完全に主従関係だ。

広告代理店は、懸命に最適な方法を提案しているのに、お金を出すという身分だけで、それらをすべて跳ね除けられ、素人が指示するまったく意味のない業務に従事させられる。

完全にクライアントの指示に則って代理で動いているだけだ。

もちろんお金を支払う側だから言う権利もある。

けれども本来自分が達成しようというゴールを無意識に妨害してまで口を出してきたり、中には自分の言う通りにならないとわめき散らしたり、ミーティングを無言で立ち去る人間もいたりする。

当初はクライアントの曲がった主張に対して論理的に対抗してみるものの、金を出すクライアントと金を受け取る代理店という主従関係が存在する限り、次第に自分ではコントロール不可な状況に対して無力感を抱くようになる。

そこに成長もやりがいもない。その無力感は仕事のみならず、私生活にまで蝕んでくるのだ。

決してこのような異常事態は私だけの個人的な経験による見方ではない。

私のチームは短期間で何人も人がやめているし、今勤めているメンバーだって、口を開けば「こんなのはクレイジーすぎるよ」といった調子である。

会社に人がいつかないほどの被害を出すクライアントならば代理店自ら契約解除をするべきなのではないか、という言葉が出かかったし、それとなく管理職たちに聞いてみたこともある。

それでも契約解除に至らないということは、会社にとって人材が定着しない、人材の流出よりもクライアントとの契約を続ける方が重要だと考えているのだろう。

人材は入れ替えがきくとなれば、働く人間がどうなろうとも膨大な利益をもたらすこのクライアントとの契約の方が会社の利益にとっては重要。

会社にとっては合理的判断かもしれないが、そのコマに使われる労働者としては、会社への不信感にしかならない。同時に、結局は会社の利益を生み出すコマにしか我々はすぎないのだ、という絶望感が襲う。

まともに働く自分の権利は、会社ではなく、自分で守りコントロールするしかないのだ。

代理店にクライアントを選ぶ権利はないのか。

知性がなくても金と権力があれば何をしてもいいのか。

先人たちが効率的な仕事のやり方とは、成果を出すための組織作りとは何かと考え、その思考や手法を現代にまで残してくれているというのに、それに耳すら傾けず、己の欲望と無知のままに振る舞うのは愚かである。

ドバイで働くラストチャンス

そんな愚かしい連中と働き、主従関係に支配される状況を改善しようという気概をこれ以上保つ続けることはできなかった。

それが数人だったらまだ何度も伝えて改善を求めたのかもしれない。

けれどもそれが自分をとりまく大半だった場合、自分が元いたもしくは求めているような環境に仕上げるためには10年単位でかかるのではないかと思う。気が遠くなる話だ。

一人当たりの時間は限られている。一人の人間ができることも限られている。

状況を改善できなかった己のふがいのなさで自らを責める日も多くあった。

けれども、これ以上未開のジャングルで先住民たちと仕事をしていく時間は自分にはない。都市に出て会社を選び、人を選び仕事をしていくのだ。

仕事のやり方を知らない人間とは働くべきではないのだ。

楽しくやりがいのあった仕事が、もはや自分を汚染するだけの時間になってしまった時、リーマンをやめようかとも考えた。

けれどももう一度楽しく仕事をやりたい、と考えてドバイで再度転職したのである。これがラストチャンスだ。