ドバイで働き始めて1週間後、泣いたら給料が10万も上がるというミラクル

ドバイにきて1週間が経とうとしている。気候やドバイの習慣、家探し、新しい仕事と慣れていないことづくめでなんとか気を確かにポジティブであろうと努めてきた。しかしながら、どんづまりで終わりが見えない家探しをしているうちに、どこかで自分の中でピンと張ってきた糸が切れてしまったらしい。

UAEの住民カード取得に午前中行ったのだが、ここでも予期せぬことが。いつもなら、そうなのねーわかったーとやり過ごせるちょっとしたことなのだが、なぜか急にやるせない気になってしまい涙が出てしまった。

大人にもなって泣くか自分!?

と自分の弱さに情けなくなったが、そんなこといったってしょうがないじゃないか。涙が勝手に出てくるんだもの。

なんとか涙を拭き手続きを終えて仕事場へ。が仕事中でも今まではなんとかやりすごせたものの、やはりちょっとしたことで情けなくなり涙が出てしまった。職場で泣くというのは、数年前のインターンと前職の退職日以来である。

なんとか泣いたことを気づかれないようにしようとするのだが、やはり気づかれた。

「どうしたの!?大丈夫!?何があったの?」

とフィリピン人のセクシーな女社長に本気で心配される。

「いや大丈夫です!」

となんとか気丈に振る舞おうとするが、

「よし、じゃあちょっと話をしよう」

といわれ、オフィスから出てカフェにて社長と話す。そしてとつとつと家探しがうまくいかないこと、ドバイの賃貸料が予想以上の値段で、今のままだと賃貸料だけを払うために働くことになるんじゃないかという不安(ちょっと大げさかもしれないが)、ドバイじゃなくて別の場所からリモートで働けないか、などと今思えばちょっと突飛すぎる考えなどを伝えた。

もちろん現状の給料で住める家はたくさんある。ただ、少なくともそれなりにきれいで便利なところに住みたいという自分のつまらない欲のせいで選択肢が狭まっていたのである。

すると社長、

「だったら給料あげるわ!給料があがったら家の選択肢も増えるし、あなたの悩みも減るでしょう?」

え?あんなに面接の時は、給料の交渉を渋っていたくせにこういう時はええんかい!とずっこけてしまったが、なんと柔軟な対応だろうか。すると社長は続けて、

「正直いうとリモートで働くという選択肢は考えていないの。あなたのこと、すごく見込んでいるし、みんなここで働いて欲しいと思っているのよ。ハッピーな人はすごく仕事においてもクリエイティブだから、社員の仲間をハッピーにすることも私の仕事なのよ」

とすごーくありがたく、すばらしいお言葉を頂いてしまった。聞くと他にも最近パフォーマンスがよくない同僚がいて、社長が話を聞くと、妹と住んでいる彼はなぜか妹と3ヶ月以上も口をきかず、しまいには家を追い出されそうな危機的状況になるという、これまたアンビリバボーな状態におかれていたとのこと。

仕事だけじゃなくて、社員のメンタル面まできちんと見てくれる懐の深さと温かさ、これまでに出会ったことのない慈しみを感じた。これからは「ドバイの母」と呼ぼう。

その後、社長がCo-founderにも連絡を取りものの1時間ほどで給料が月収にて10万円ほど上がることになった。なんだこのスピード感と柔軟性。

そしてその後、

「今日は週末だから飲みに行こう!」

と同僚とその旦那さんとともに飲みに。そして同僚の粋な計らいなのか、彼女の知り合いの日本人女性もつれてきてくれた。聞くと大学卒業後からドバイで働いている建築士で7年ほどドバイにいるという。

レストランのバンドの大音量の音楽にあわせて踊る社長と同僚を眺めながら、情けない自分に泣き、ドバイから逃げたくなった午前中から一転、人の温かさに触れやっぱりドバイにいたい!と思う自分がいた。なんとも感情の振れ幅が大きい1日だっただろうか。

給料があがったという嬉しさよりも、今まで呪縛のように取り憑かれていた家探しにも少し良い兆しが見え始めたことと、自分がいかにあたたかい人たちに囲まれているか、ということがわかり、改めてもっと前向きにがんばろうという気持ちになった。ドバイの母、ドバイの仲間達よありがとう。

20代後半から海外で生活。ドバイで5年暮らした後、イスラーム圏を2年に渡り旅する。その後マレーシアで生活。大学では社会科学を専攻。イスラエル・パレスチナの大学に留学し、ジャーナリズム、国際政治を学ぶ。読売新聞ニューヨーク支局でインターンを行った後、10年以上に渡りWPPやHavasなどの外資系広告代理店を通じて、マーケティング業界に携わる。

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