日本人はなぜ小忙しいのか?そして暇がもたらしたもの

ドバイでは絶対的に時間がある。ドバイの連中は1日8時間業務できっかりと定時には会社を出て、仕事のあとの時間を各々楽しむ。残業する日など日本の年間の祝日数よりも少ない。ドバイの住民ならぬ株式会社ドバイの社員の義務は労働だけである。

今考えるとなぜあんなにも東京にいた頃は小忙しかったか不思議である。


物理的な時間だけに限らない。東京ではあれこれといつも何かが頭の中を占めていたのに対し、ドバイに来てぽっかりと思考に大きな空白ができた。もちろん初期においては、生活になれるという荒波があったものの過ぎ去ってしまえば、そこに広がるのは穏やかなさざ波だけである。

この一因にもやはりドバイの性質が関わっているように思う。UAEは民主主義ではなく、絶対君主制の国である。つまり選挙なんてものはなく、知らずして誰が政治を仕切るかが決まってしまうのである。そしてその誰かというのは、現時点で政権を握っている者の家族であったり、近親者であったりする。

民主主義信奉者からすれば、絶対君主制なんて市民には都合が悪いのでは?と思うかもしれない。けれども民主主義国家においても一度も選挙に行ったことがない人間としては、政治に個々の意見を反映する機会がない絶対君主制の下で暮らしていても、なんら差し支えることはない。

むしろ民主主義のもとにおいても、大多数の意見で決まるのがオチであるからその大多数と意見が違えば、個人の意見は抹殺させるのである。しかも大多数の意見というのは、必ずしも正しい方向のものとは限らない。むしろ多数派が正しいのだということになってしまう。その意味で本当に民主主義というのは、良いことなのだろうかとも思う。

そしてドバイというブランドイメージを保つため、言論統制も厳しい。

こうしたことからドバイにおいては、政治的な活動や議論が盛んに交わされることはない。むしろ市民たちも多額の給料をもらえて生活に満足しているので、政治がどうなろうとあまり関心がないのだ。

さらにドバイにいるほとんどの外国人にとっては数年滞在するだけの国である。国の将来がどうなろうと当人たちには関係ないのである。下手なことを言って国外退去させられても困るから、国政に不満がある人間でもだんまりを決め込む。

このようなことから、投票に行くの行かないの、安倍政権がどうの、保育園を増やせだの、天気の話だの、芸能人のスキャンダルだの日本人の頭の大半を占めているであろう事柄はドバイには存在しないのである。

ドバイではベビーシッターを雇う家庭が多いので、保育園なくして働くことはできない、ということがない。また天気に関しても、ドバイの天気は毎日同じなので住民同士で特段感想を述べ合うこともない。芸能人のスキャンダルにしても、多国籍な人間の寄せ集めなので特定の国の芸能人の話などのぼることもない。

ドバイ市民の間で交わされるのは、どこのレストランのブランチがいいだの、週末のイベント情報などといったお気楽なものばかりである。ドバイらしい会話といえば、車社会ゆえにどこそこで罰金を取られた、ある道路が渋滞しているといったものである。ある意味でドバイにいると、人間として骨抜きにされてしまう。

日本の小忙しさから解放されて、思考の空白地帯が広がるドバイでできること。それは世界をよく観察し、教養を高めることだと思う。教養というと大げさに聞こえるかもしれないが、時間があるというのは何かについて深く考えたり、新しいスキルを得るチャンスである。

幸いなことに自国の政治(この場合はUAE)について考えなくてすむため、この安全地帯ドバイにおいて他の中東諸国について勉強し、考えることができる。日本でもできることかもしれないが、物理的に遠ければもはや中東という遥か彼方のことなど関心の対象ではなくなってしまう。

一方で、イスラエルなんかにいたらイスラエルだけで語ることのできるトピックが山積みなので、イスラエル絡みのことしか考える暇がない。だからこそギリ中東っぽいこのドバイで、イラク、シリア、サウジアラビア、イラン、エジプトなどそれぞれの国を見渡すことができるのである。

さらに本や文献などで得た知識になぞらえて、実際にその国の人間に聞いてみることも可能だ。エジプトの情勢について聞きたければ、その辺のエジプト人に聞けばいいし、シリアの内戦についてどう思っているのかと聞きたければその辺のシリア人に聞けばいい。この点において、多国籍な人間が集まるドバイというのは便利である。

下手をすれば、ドバイは単に金を稼いで、娯楽なり酒なりに時間と共にだだ流ししてしまうことになる。これまでの暮らしがそうだった。けれどもそれでは他の動物と変わらないではないか。労働は他の動物と大きく異なるが、食って飲んで寝ての毎日では人間をやっている意味がない。

人間が他の動物と大きく異なる点。それは抽象的に物事を考えることである。こうした人間ならではの思考なくしては、人間を人間たらしめることはできない。だからこそ考えなければいけないのである。