海外がビビった日本人の満員電車に乗る高度なスキル

気づけばリーマン生活も日本で過ごした時間より、ドバイで過ごしている時間の方が長くなりつつあるこの頃。すっかりドバイの生活が日常と化していて、日本への望郷の念なども失せつつある。日本や別の国へ行こうかという気もなんだか起こらない。ドバイを去ればあるものを失ってしまうのではないかという念に狩られているからだ。

もちろんそれは金ではない。金よりもドバイで失いたくないもの、それはドバイの楽しい通勤だ。日本との通勤形態を比べた上で、ドバイでの通勤の楽しさについて語りたい。

満員電車に乗る高度なスキルを持つ日本人

通勤といえば大都会東京に住むものにとっては、苦痛である。毎日満員電車に揺られながら、時には優雅にスマホで情報をチェックしたり、本を読んだりすることさえ難しい局面に直面する。満員電車に乗ることの利点、それを一つあげるとすれば、乗車率100%を超える車内にいかに身体をうまく使い、入り込むスキルを身につけられるということである。

「これ以上入ってこないで・・・」という車内の乗客の切実な願いをガン無視して、通常であれば身体を前向きにした状態で乗るが、バック駐車のごとくお尻から身体をねじ込み車内の乗客を中へ押し入れる。そして最後に忘れてはならないのはカバンの収納である。

これをうまく電車内に滑り込ませないと、カバンがドアに挟まれてしまう。時にはカバンの半身を外にさらしたまま移動する醜態をさらすハメになるのだ。もしくは、ドアがいったん開いて車内の乗客から静かなる反感を食らう。

すでにそのスキルを体得した日本人にとってはなんてことはないが、海外でこの技を披露すると外国人たちはこぞって、「まじで!?そんな技があるの!?すげー」と仰天するのである。

中国人ほど積極的に海外展開を行わない日本人たちも、通勤時に限っては人の意向なんておかまいなしに果敢に挑戦していくのである。満員電車に果敢に乗っていくあの意気込みをぜひ海外でのビジネス展開で発揮してほしいものである。

一方でドバイの場合だと乗車率100%を超えるか越えないかという場合、人々のパターンは大きく2つに分けられる。

1つは、「見送り」。日本人レベルからするとまだまだ10人以上はいける、というところを外国人たちは、「もはや入れる状況にない」と判断し、次の電車を待つのである。しかし通勤ラッシュ時においては、次の電車も満員である可能性が高いため、しばらく「見送り」の状況が続く。

一方で入れる状況だと個人が判断した場合は、電車に入るのだがこちらは前入りが通常である。特にフィリピン人やインド人に多いのだが、特攻のごとく前入りで果敢にせめていく。日本人のバック駐車のような高度な技を持つものはいない。

本人たちは人と人が密着する様が楽しいのか、なんだかわきあいあいと「きゃーいっぱいよー」などと黄色い声をあげながら車内に身体を車庫入りさせる。

日本の満員電車が「葬式」だとすれば、ドバイの満員電車は「祭り」なのである。

ドバイの通勤は路上の笑いとの遭遇である

ドバイの電車通勤は日本ほどの超満員にならず比較的快適だとはいえ、ドバイ通勤のメインはこの快適さではない。

ドバイでの通勤を楽しくさせるもの、それは道端のお笑いアトラクションである。道端のお笑いといっても常に路上で大道芸者が芸をして人々を笑わせるといった類のものではない。

ドバイの道端のお笑いは、道を行く素人によって形成されている。しかし当人たちはいたって真面目に振舞っているので、その真面目な素行が逆に他人にとっては滑稽にうつる、そういった意味でドバイの道端はシュールな笑いの戦場なのである。ある意味で「笑ってはいけない」のである。

200国籍以上の人間が住んでいる都市ゆえなのか、極端にいえば道端には200以上の人間の振る舞いがあるわけだ。そんな私が道端で出会い、ささやかな笑いを提供してくれたドバイ市民の一部をご紹介しよう。

風船好きなおじいちゃん

60代以上の高齢の人間はドバイにいると目立つ。なぜならドバイの人口の中心は20~30代であり、高齢者を見かける確率というのは個人的経験からすると1ヶ月に1回あるかないかというぐらいの確率だ。

風船というのは、一般的にいえば子どものアイテムである。それをおじいちゃんが持って道端をうろつくとはいかなることか。

孫といればなんとなく文脈が理解できるが、その場にいるのはおじいちゃんただ一人である。そして風船がおじいちゃんのもつ唯一のアイテムなのである。カバンも持たずに風船だけをもってうろうろする。お笑いでいえば完全なボケであるが、当人にボケが入っている様子はない。真面目である。

なぜ老人が風船だけを持ってその場をうろついているのか、くびを傾げずにはいられなかった。

ロシア民謡を歌う女

ドバイ市民が犬を散歩させる姿はよく見かける。小型犬から大型犬までまんべんなく各種そろっている。

ある日の帰宅途中、犬を散歩させる女性を見かけた。後ろから見ている分にはほほえましい光景である。しかし彼らを追い抜き去った瞬間、体に衝撃が走る。彼らの背後からは確認できなかったのだが、追い抜いた瞬間なにやら不気味な音が聞こえ始めたのである。

どうやら飼い主の女性が歌っているようなのだ。道端の人間が公共の面前で歌っている光景にはよく出くわすが、たいていは音楽を聞きながらなので、だいたいノリのいい感じのポップスだ。

しかしその女性は、ロシア民謡のようなまず道端で歌う曲として、選ばれないような曲を選曲しているのである。極め付けは、激しく音痴ということである。音痴なのに口ずさむというレベルではなく、合唱レベルでロシア民謡を歌う。隣を歩く「いぬのきもち」に同情してしまった。

週末のプリングルズが楽しみでしょうがない男

待ちに待った週末が始まろうとする。友人や恋人と食事にでかけようと浮き足立ったドバイの道端にその男はいた。何かを小脇に抱えているようなのだが、はたからみればスーツを着たリーマンだったので、仕事のものでも持っているのだろうかと刷り込みが働いた。

しかしその男とすれ違いざまに見てしまったのである。

なんと男の小脇に抱えられていたのは、プリングルズだったのである。しかもシングルではなくダブルスである。帰宅途中のリーマンが、スーパーのビニール袋をさげている姿ならまだわかる。晩御飯の買い物だろう。しかし袋にもいれずに、ダブルスのプリングルズを裸のままで大事そうに抱えるリーマンとは一体。

家に帰宅し、好きなだけプリングルズを食べる男の姿が思い浮かぶ。週末プリングルスをやるためだけにこの男は週末を楽しみにしていたのか・・・人の嗜好というものはよくわからない。

そのほかにも破れかけた枕を小脇に抱えながら帰宅するリーマンやアイロン台を電車で運ぶ女など、ドバイの通勤は謎とシュールな笑いであふれている。そんな光景をみてもまわりはいぶかしがったり、笑ったりはしない。だからこそ、私にとっては滑稽にうつるのである。

ドバイだからこそできる通勤の楽しみ

日本にだって滑稽な振る舞いをする人間はおるわい!という声もあるかもしれない。確かに先述したようなレベルの人々は東京都の赤羽近辺に行けばごまんといるのかもしれない。それは認めよう。ではこちらはどうか。

ドバイならではの通勤の楽しみといえばもう一つある。それが世界の人々の通勤スタイルチェックである。

先ほども述べた通り200国籍以上の人間が住む多国籍な都市がドバイである。アメリカやカナダも移民が多いとはいえ、すでにその国で生まれ、育ちアメリカなりカナダ色に染まっているのとは訳が違う。それぞれのお国様式が、その国らしさを失わなずそのまま持ち込まれているのを目の当たりにできるのがドバイである。

日常の通勤ではさまざまなお国スタイルが見られる。フィリピン女子はやたらとマイケルコースを持ちたがり、小綺麗に着飾っているが、全体のバランスでみればセンスがなくて残念だとか、インド人女子の伝統と現代を合わせた通勤スタイルがなかなか機能的でよいとか、アフリカ人はブランドものを取り入れずして、センスよく仕上げてくるだとか、そういったファッションチェックができるのである。

日々のファッションチェックを総じた結果、今のところもっともファッションセンスが総じて高いのはやはりアフリカ人である。あの絶妙な色使いと全体的なバランスは他の大陸出身者にはマネできない。金髪で背の高い欧米人は、それなりのものをきればそれなりに見えるが、それはファッションセンスではなく、身体的な利点によるところが多い。

こんな楽しい通勤があるからドバイ生活はやめられない。逆にいえば、ドバイを去ればこの楽しみを失うことになる。ドバイを去ることで失うのは金ではない。世界のシュールなお笑いが見れなくなってしまうことである。

人との差異が好物な人間としては、行動や価値観の違う人間と毎日直面できるドバイは、まさに差異を与え続けてくれる天国なのである。

20代後半から海外で生活。ドバイで5年暮らした後、イスラーム圏を2年に渡り旅する。その後マレーシアで生活。大学では社会科学を専攻。イスラエル・パレスチナの大学に留学し、ジャーナリズム、国際政治を学ぶ。読売新聞ニューヨーク支局でインターンを行った後、10年以上に渡りWPPやHavasなどの外資系広告代理店を通じて、マーケティング業界に携わる。

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