ドバイ生活3年目で思う、生活を豊かにする4つの考え方

ドバイにやってきて3年目を迎えた。飽き性な人間にしてはよくやってきたと思う。一方でドバイにやってきて2年の間に6回も引っ越しをしているし、仕事も3回変わった。それでも変わらないのは、いまだドバイにいるということ。

初見からドバイはつまらない場所だと思っていたし、途中でもはやドバイを抜け出して別の場所へ行くかといったことも考えていた。けれどもやはり時が経過するにつれて、その退屈感がうまく生活に馴染んできたし、取り巻く周りの人間が少しずつ変わることで、ドバイへの見方も変化するようになった。


ドバイにきて数ヶ月、数年という人間と話していると、たいがいがドバイの拝金主義的なことや、ドバイのいいかげんな人間に辟易するといったことである。この手の話題は、どこの国の人間と話していても同じような結論に至るし、それを確認しあうことでドバイの新参者同志で一種の連帯感を高めているようでもある。

しかし最近のところ、ドバイ生まれだとかドバイに10年以上住んでいるという人間と付き合うことの方が多くなった。まあこんな退屈な場所で、長年過ごせるなあと思ったりするのだが、もはや生まれ故郷がゆえに、ドバイは退屈だなんて言ったりしない、退屈を超えた安定という境地に彼らはいるようだ。

そんな彼らに囲まれて考えたことをまとめてみたい。

1.もはや出身国で人を判断するのはナンセンス

黒船時代からの遺伝子ゆえなのか、島国という環境なのか、外国人=何か異質な存在という感覚がドバイにきてからもしばらく抜けないでいた。だからこそ言葉も文化も共有する日本人といると安心していたし、逆に何かと都合が悪いことがあれば、外国人は・・・アラブ人は・・・などとひとくくりにして非難をしていた。外国人を外国人と呼ぶあたりから、なんだか島国の田舎っぺっぽいし、自らが多様性にかけている人間だと言っているようなものである。

けれどもドバイでより長い時間を過ごすほど、いろんな外国人に会うわけで、その度にひとくくりにしてジャッジするのはいかんなと思うわけである。というより、もはやその人となりを探ろうとする上で、出身国や人種というのはいまいち強力な判断基準にはならないというのがここ最近の気づきである。

例えばインド人にしても、英語がうまく話せず 写真とってくれーといった田舎っぺのようなインド人がいたり、人生の半数以上をドバイで過ごしインド人だが対してインド飯を食べていないインド人もいる。またインド人だがインドで生活したことはなく、格好だけはインド人だが中身はカナダ人だったりする人もいる。インド人だから、こう・・・といった先入観が全く使えないのだ。

同僚のパレスチナ人に至っては、パレスチナ人と名乗っているがシリア生まれで、ドバイで人生の大半を送っている。パレスチナ人として彼を見るのは、ちょっと的外れである。

要は出身国よりも、育った生活環境、家庭の経済力、教育、学歴といったものの方が、その人となりを推測する上で重要なのではないかと思う。

 

2.他人の価値観にとらわれず自由に寛容に生きる

日本を出て生活していると、いかに自分が無意識のうちに、あれをしたらいけない、これをしたらいけないという規範にのっとって生きてきたかがわかる。たいそれたことはない、ささいなことなんだけれども、自由気ままにアクロバティックに振舞う人々を見て、ああ、人間ってこんなに自由な発想をして面白い生き物なんだなあとつくづく思う。

一方で日本にいると他人がこう思っているんじゃないか、他人に迷惑をかけるから、女だから、もういい歳なんだから、独身だからといって実態のない根拠のもとに人々の思考や行動に制限をかけていくのである。

女だから給料が低くなるでもなし、昇進できないわけでもない。人の目を気にして着飾ったりしない。内向的な人間のため、もっと社交的に振舞わなければとかもっと話さなきゃというプレッシャーがあったが、それでも最近はこれが自分なのだから無理して話さなくてもいい。しゃべらないのが自分なのだ。と考えられるようになってからはかなり気が楽になった。

そして異文化の違いによる、他者への怒りを感じることもここ最近はほとんどない。アラブ人はわかってねえ、遅れてるといった考え方をしたこともあったが、彼らの国の歴史、教育、経済システムを知っていくと、ああこうした考え方の違いが生まれるのも当然だなとわかるようになるのである。

中国人に間違えられるのも当初はあまり快く思っていなかったが、こちらもまあ当然だよなと最近は思う。我々だって、日本人と中国人の区別がつかないこともあるし、ましてやインド人とパキスタン人、ロシア人と旧ソ連圏の国の人間の違いもよくわからない。こうしたわからなさにより、その国の人を不快にさせてしまうこともあるのだ。特に旧ソ連圏の人間をロシア人と間違ってしまうのはかなりの失態である。だからお互い様なのだ。

3.できないことよりもできることに目を向けると生活が豊かになる

日本を離れた当初は、ナイナイ症候群にかかっていた。あれがない、これがない、日本だったらすべてあったのに。ものだけではなく、サービスの質やインフラに至るまで、日本だったらあるのに・・・そしてそれがないドバイは最悪だと思っていた。

けれども今は日本食やコンビニ、アマゾンがなくてもいい。なければないでそれなりの生活になっていく。日本食だって、外国の寿司チェーン店の外来モノの日本食で十分満足だ。

アマゾンがあれば、いつでもどこでもすぐに欲しいモノが手に入ったけれども本当にそれらは必要だったのか。今はアマゾンで欲しいものなんて本以外にはない。アマゾンがあることで、逆に生活に不必要なものさえも、欲しくなってしまうのではないか。それに、プライムサービスで頼んですぐモノがやってきても、たいていの場合そんなに急いで必要なモノなんてないし、単なるその場の消費欲を満たしているだけに過ぎないと思う。

逆に日本にないものがドバイにはある。街を歩けばイラク、シリア、レバノン、イエメンといった雑食の東京でも見つけるのが困難な料理の店がたくさんある。滅多に出会えない料理を味わう機会がある。

ドバイは娯楽が少なくて、生活するには退屈というが、逆に暇だからこそいろんなことに挑戦したり、考えたりする時間がもてる。時にはそれを暇と名付けてもてあますこともあるけど、やりたいことがあればそれだけ自分のやりたいことに時間を費やすことができるのだ。

東京の人々はなぜそんなに小忙しいのか。東京にいた頃はいつもなにかに急き立てられていたような気がする。学生時代には受験や勉強という責務があったし、社会人になれば仕事に追われる日々である。なんだか忙しいといって自分がやりたいことを先延ばしにし、そのまま定年を迎えている人が多いんじゃないかと思う。

ドバイは東京ほど多様な人がいるわけでもなく、出会いに恵まれているわけでもない。都会では満員電車が辛いだのというが、それは多様な人間に気軽に会えることの裏返しである。ドバイは逆に言えば、人が少ないため週末でも9割ほどの店は予約なしで入ることができて、何週間も前から予約するなんて煩雑なことをしなくて済む。気楽だ。

 

4.日本は絶対的に恵まれている。そして差別や格差はなくならない

世界の格差の縮図とも言われるドバイ。月収10万以下の給料で暮らし、母国に送金を続ける人もいれば、一方でゴージャスなプール付きのヴィラに住み、公務員職ながら1,000万円以上の年収を手にし、ベンツの4駆やランボルギーニを乗り回す人々もいる。

人類は平等だとかいう洗脳を間に受けてきても、これが世界の現実なのだということを認めざる得ない。多くの人は認めたがらないが、生まれた国や家庭の経済力によって、人生がだいたい決まってしまうのだ。だからこそ、貧しい家庭ながらに成功した人の物語に、人々は魅了されてしまうのだろう。

平均的にみると日本人は恵まれている方になるだろう。おうち好きでプライベート空間が欠かせない人間が、1部屋に8人以上が寝泊まりする簡易宿泊所みたいな場所に住む必要性にせまられることはないし、母国で貧しい生活を送る家族や親戚に送金する必要もない。稼いだら稼いだ分だけ自分の好きなことに使えるのだ。

けれどもこれは私の実力ではなく、偶然にして日本が豊かな時代に生まれたがゆえの恩恵を受けているだけの話である。実力でそこそこの生活を送っているわけではなく、ほとんどは偶然生まれた国と偶然生まれた家庭の都合で、好き勝手にさせてもらえているというのが事実である。

そんな実力ではない運をたてにして、我々日本人や欧米人というのは第三世界の人間よりも進んでいるのだ、偉いのだと偶然を自分の実力のようにしていうのはちょっと違うと思う。

ドバイでは上を見ても下を見てもキリがない。下を見て自分が置かれた状況が恵まれていることを実感したのが束の間、次は金持ちエミラティを見てベンツの4駆に乗れて羨ましいと思い始めるのである。もはや他人と比べて自分が置かれている立場や階級というのはそんじょそこらのことでは動じないのである。

イギリスオックスフォード大学の心理学専門のエレーヌ・フォックス教授いわく、他人と比べるのはそもそも脳のバイアスだという。目標を達成したり、自分が得たいものを得ても他人と比べるという、この脳のバイアスにより幸福感は消失する。だからこそ、他人と比べることをやめ自分が何に幸福を感じるのが集中すべきだ、とNHKの白熱教室という番組で語っていた。

それに気づいてからは、他人と比較するのをやめた。すると他人と自分を比べて不幸になる時間が減った。自分が満足できる生き方を追求すればそれでいいのだ。