付き合う人は日本人派?外国人派?この愚問に答えよう

海外に住んでいるとなぜか定番の質問としてあがってくるのが、「付き合う人は外国人なの?それとも日本人なの?」という手の質問である。

正直に言おう。まさしくどーでもよい。そもそも恋愛というものに縁もゆかりもないので、聞く相手を間違えている。まさに「グアテマラの経済についてどう思います?」というレベルぐらい、普段考えもしないし、話したところで世界経済に大きな影響を与えるわけでもない。


海外移住をして恋人は外国人派から一転・・・

どーでもよい、と言うと話が進まないのでとりあえず見解だけ述べておこうと思う。かくしてまだ恋愛というものに縁もゆかりもあった時代には、私は外国人派だった。なぜなら自我が目覚めたころには、イスラエル、パレスチナに留学しており、もはやそんな女子を受け入れるほどの器量は日本人男子にはないと思っていたからだ。

そしてそもそも市場が違う。かわいい、男に従う・・・といった一般に日本男児に好まれる要素はミジンコほども私の体内には備わっていない。逆に変な方向へ向かう行動力と自立性だけが取り柄な人間である。

逆にそうした要素を備えたほうが外国人にはウケがよいとあざとく知ったのである。一方で日本でウケのいい「かわいさ」は幼さとしては海外ではとらえがちなので、「セクシー」路線で自らを売り出すことにした。

市場の動向が分かれば話は簡単だ。売れる市場に自分を売り出せばいい。日本ではまったく売れない商品だが海外ではそこそこ売れるのだ。そんな今思うとねじ曲がった妄想により、外国路線を一気に強めたのが青春時代。

しかしあるときふと気づいてしまったのだ。これは公正なビジネスではないと。なぜなら日本にいる外人は、自国ではモテないが日本ではちやほやされる。それをいいことに日本女子をはべらせているのが現実だ。日本女子も女子で、外国人にモテている自分に陶酔する。外国人といっても、親日派であわよくば日本女子と寝たい自国ではB級のメンズである。

あくまでも相対性の罠だったのだ。日本にいれば、そこそこのメンでも外国人はステータスであり、かっこよく見えるのに対し、日本人女もそうしたB級メンズ外国人にちやほやされるだけで自分はモテているのだと勘違いする。

そうした時期にはひたすら国際結婚にあこがれていたし、あわよくば外国人の血を入れることで一発逆転かわいいベビーを・・・なんて愚かなことを考えていたこともあった。

一時期日本人派に転じるも・・・

といった自分は外国人にウケるという絶対的な自信があったものの、そうした相対性の罠と浅はかな外国人たちの関係に何か物足りなさを感じていたのも事実。結局、ツラだけで惚れ合っても中身が伴っていなければむなしいことこの上ない。

追い討ちをかけるように、ドバイでの欧米人優位社会により海外ながらモテないという辛酸を味わうというのが今日この頃。さらに仕事上ですでに国や文化の違う人々とやっていくことがどれほど大変なのかということを味わい、日本と海外の文化のギャップを強く知る機会となった。

仕事でのやり方でも文化や言語の違いだけでこんなに困惑したり大変なのに、これがプライベードまで押し寄せてきたらたまらねえ!

そんな中一時期は、同じ文化を共有できて話ができる日本人になびきかけたが、そうは問屋は下ろさない。しょせんは、マッチしない市場なのだ。さらに状況はみな数年で帰るという期間限定の恋物語。そんなところにホンモノの恋愛なんて転がっているだろうか。

期間限定でも、海外在住での寂しさを紛らわすために浅まさしい関係に身を任せることは愚かすぎる。寂しさだって孤独だって徹底的に向かい合うべきなのだ。

そんなこんなを経て、もはや恋愛には縁もゆかりもなくなった。というかどーでもいいという結論に至った。一般の人がソマリアへいくことが一生ないように、きっと私も恋愛という世界へ行くことは金輪際ないのだ。

外国人と浅い関係性で一時期の孤独や自尊心を高めるのも浅はかすぎて今はできない。つながりあっても、そこには同じ文化や言語を共有した上での強いつながりがもてそうにもない。自分にとってはそれが不可欠なのだ。

一方でなんとなく愛とかいうものでつながれていれば、それ以上の深い理解や言語の対話なんて必要ないとしている人々もいる。実際に今までみてきた国際結婚している人々の大半はそうだった。けれども自分は無形の愛だけで人とつながることは心許なさすぎて、確固たる言語による個々の思想の対話なしに人とつながることが許せない。

やや暴走してしまっておかしな方向へ行ってしまったが、とにかく言いたいことは別に外国人だろうが日本人だろうが関係ないんじゃないですか、ということ。そこに愛があれば、もはや人種なんてどーでもいいんじゃないでしょうか。一般論として。