海外での人間関係の築き方。そして日本人コミュニティとの距離感

まったく日本と関わりのない環境で働いており、非社交的なリーマンにとっては、日本人はおろか日本人コミュニティと接触するまでに長らく時間がかかった。

見ず知らずの土地で、かつ3,000人ほどしかいない日本人と出会うのは普通の日常では、その確率は低い。だから、日本人がたくさん(といってもせいぜい6人から10人ぐらい)をみた時には、まるでジャングルから抜け出して都市デビューしたように興奮したものである。


そんな日本人との遭遇を経て、何度かお誘いにのり都市で遊ぶという初期の興奮がおさまって来たこの頃。再びジャングルに帰ろうと思っている。いや、すでに日本人との関係を築いてしまった上で、誘いがあればジャングルから都会へわざわざ出向くということになるのだが、同時多発的な人間不信に陥ったことで、そうした関係も断ち切り、人間鎖国を敢行している。

現地採用と駐在員の溝は埋まらない

日本人に限っていえば、大概ドバイにいる人といえば駐在員、エミレーツクルーがおきまりのお品書きである。一方でそれはそれで、日本だったらまず関わることがなかったであろう業種の人々と出会う機会を多く持てた。銀行、不動産、通信、航空、建築、小売、インフラ。そうした異業種の人々と話すことは、広告、IT業界しか知らないリーマンにとっては非常に有意義であった。

一方でやはり会社の意向でやってくる駐在と自ら国を選びやってきた現地採用という違いなのか、やはりドバイや中東に対する温度差を感じることがしばしばある。

別にそんなことは些細なことなのでスルーすればよいのだが、やはり会社が家から車まで手配してくれ、時期が来ればこの国を立ち去る駐在員と、自らですべての生活環境を整えて自らの意思に立ち去るタイミングをゆだねられている現地採用との間では共感できるポイントが少なくなる。

仕事環境においても、日系の会社ということで日本人優位、まわりで働いている外国人はインド人がフィリピン人が定番な駐在員に比べ、アラブ人やヨーロッパ人が大多数で少数派に置かれる現地採用とではまた苦労のポイントが異なってくる。

どちらの方が苦労が多いかという話ではなく、それぞれの環境で異なった苦労があるわけだが、やはり同じドバイにおいても仕事環境によって苦労のポイントが異なってくるのである。

そうした点においては、同じ文化や言語を共有する駐在の日本人よりも、文化や言語の違いというギャップはあれども同じく単身でやってきたその辺の外国人との方が共感ポイントが多く、仕事や生活においては話があうのである。

新興宗教への誘いなのか・・・?

ドバイの日本人コミュニティでは、サッカー部や野球部というものが存在しスポーツを通して交流する会が存在する。さらには、球団ごとの野球応援チームや出身地による会というのが存在する。

阪神対巨人戦を生中継で見ながら応援する会などに参加したこともあるが、まったく野球を知らない人間としては気まずい思いをしたものである。

そうした交流の中で、日本人コミュニティにおけるイベント幹事みたいな人と知り合うことがあった。コミュニティの幹事らしく、様々なイベントを企画してはドバイにおける日本人コミュニティの交流を促している。幹事といえば飲み会主催が定番だろうが、実にそのイベントがユニークなのである。

ジャスティン・ビーバーのコンサートに始まり、世界一大きなの人工島パーム・ジュメイラにある高級ビラを貸し切ってバーベーキュー、クルーザーパーティーなどなど。当初は誘われた飲み会には参加していたものの、こうしたお誘いが頻繁にくることに私は一種の疑念と恐れを次第に抱くようになった。

まるで新興宗教の勧誘のようだ。特に母国を離れ異国で暮らす人間は、何かと孤独感を感じたり、つながりへの強い渇望が生まれやすい。そんなところをつけこんで、イベントに参加し絆を深めていく。そうしたお誘いが新興宗教の手口にしか思えなくなってきたのである。

もっとも実際に出会った人々はごくまともで会も新興宗教とはまったく関係がない。けれども、寂しい、孤独につけこんで日本人大勢で集まりそれをまぎらわしているのではないか、という点を感じる限り自分にはどうも合わないのである。

海外の出会いに特有のアレに惑わされていない?

日本人とドバイで出会う度に、こんな人と出会えてよかったなあと思う一方で、もしかしたらドバイという特殊な環境によりそう思っているのかもしれない。日本だったらそれほど仲良くならないのかもしれない。と思う自分がいる。

実際にこれは心理学でも実証されている心理らしく、環境や条件によってあるものが平時よりもよりよく見えてしまう相対性の効果によるものらしい。

アメリカ生まれイスラエル育ちの行動経済学者のダン・アリエリーも自身の著書、「予想どおりに不合理」の中で似たような経験を語っている。

スペインを旅行した際に、周りに英語ができるものがおらずその中で同じアメリカ人旅行者と意気投合。しかし、自分の国に戻りその旅行者と再会してみると、思ったほど話がはずまなかったといった経験から、

いまにして思えば、わたしは相対性の害のえじきになっていたのだろう。わたしたちがはじめて出会った時、まわりはスペイン人ばかりで、文化的なよそ者であるふたりにとって、お互いはいちばんましな話し相手だった。

ところが、愛すべきアメリカ人の家族や友人のいる故郷へ帰ったとたん、比較の基準が通常モードにもどる。そのような状況で、自分の愛する人たちではなく、異国で出会った相手ともうひと晩語りあかそうと思ったりするだろうか。

相対性は身のまわりのどこにでもあり、わたしたちはあらゆるものごとを相対性の色メガネで、バラ色だろうがなんだろうが、見ているのだと自覚することだ。外国やよその土地でだれかに出会い、不思議な結びつきを感じたとしても、その魔法は、その環境に限定されたものかもしれないと覚悟しておこう。

ダン・アリエリー「予想通りに不合理」より

旅行だけでなく、長期滞在においてもいずれは母国もしくは別の国に移住することになる。そんな時、平時の基準モードに戻っても、この関係は続くのだろうか。と考えてしまう時点でやはりその場、その国限りの人間関係しか築けないような気がするのだ。