猫が死ぬ前にいなくなるのはウソ!?

ドバイにやってきてまじかよ!みたいなことはたくさん遭遇してきたが、今回だけはなぜこのタイミングで、私の前にやってきたのか、問わずにはいられない出来事だった。イスラム教の休日ということで、アブダビの5つ星ホテル「エミレーツパレス」に宿泊した帰り。へとへとの体で家の戸を開けると、玄関近くに一匹の子猫がうずくまっていた。


あ、猫だ!そう思って近づいたが、その異常な様子が目に入った瞬間パニックになった。

文字通りガリガリに痩せて骨と皮だけなのだ。

「ど、どうしよう!?とりあえず食べるものをあげなきゃ」

帰るなり荷物も乱暴に床におき食べ物を探す。とはいえかなり弱っている猫に食べさせるためのものはなく、猫って何あげればいいんだろう!?とパニックになった頭で思いついたのは、猫といえばミルク=牛乳、そしてギリギリ固形物と液体物の間に定義されそうなきゅうりをこまかく砕いたものだった。

今思えば人間の牛乳は、猫が下痢をする可能性があるのであげてはいけないものだった。

なんとか適当にお皿になるものを探し、その上に牛乳とくだいたきゅうりを乗せて子猫の口元へ運ぶ。しかし子猫はふんふんとにおい、牛乳をひとなめしたぐらいだった。

食べ物をあげればなんとかなる、というような状態ではなく、一刻を争うような死にそうな状態だったためパニック状態の頭でなんとかしなきゃと思い、部屋の中へ運ぶことに。その日の気温は39度。人間でさえ立っているのがやっとなのに、瀕死の猫がいるには暑すぎると思ったからだ。

部屋の中につれていくものの、子猫を匿うものなんてない。ちょうど目に入った丸い洗濯おけとバスタオルで簡易ベッドのようなものを作りその中に子猫を入れる。犬は飼ったことがあり、鳥は拾ったことがあるが、瀕死の猫を拾うのははじめてだったので何がなんだか分からない状態になっていた。

とりあえず次は病院だ!と思いGoogle検索で探し、電話するものの、もう病院が閉まる時間だと言われ、断られる。あと10分あるのに!なんて冷たいやつだ。とは思いつつも緊急手当として、大金を払うのもためらわれた。しかし念のため明日の朝一で見て欲しいと予約はとったものの、とれたのは朝9時半の予約。その時間までに間に合うのかは微妙だったが、まだ死ぬとは決まったわけじゃない。もしかしたら明日の朝まではもつかもしれない。そんな期待を込めてとりあえず明日の予約まで待つことにした。

とはいえ後ろ足を引きづりながら歩く様子を見るとやはり尋常にはなれない。どうしたらよいのかわからず、何もできない自分が情けなくなりただ泣くばかりだった。ただ辛そうに「にゃーにゃー」となく猫を撫でて、「がんばれ!生きろ!死ぬな!明日の朝になったらお医者さんにみてもらえるから!」と心の中で呼びかけることしかできなかった。

もしかしたら・・・「死」を予感させたのはある3つの行動だった。1つは足を引きづりながらも歩く様子。もう1つはがりがりで何も食べてなさそうなのに突然しっかりとした排便をしたこと。3つ目は水でさえも全く飲もうとしなかったこと。

ちょうど3年前の10月、飼っていた犬が見せた行動とかぶっていた。

死の直前には、体の中をきれいにする作用?が働き、排便や失禁をすると聞いたことがある。飼い犬もまさにそのような行動をした。プライドの高い、決して家の中でトイレをすることがなかった犬が死の数時間前に、家の中で排便をしたのである。それを見て慌てて、犬用のオムツを買ってつけた覚えがある。そして飲食は一切しなくなる。これは数日前からの現象だった。そして、足腰が弱くなり通常の床であってもすべってうまく歩けないという症状が見られた。

このままだまって「死」を見守るのか、それとも駄目元で病院に行き治療してもらうべきなのか。何が正解なのかはわからなかった。ただ、できる限りのことをしなければという思いはあったものの、ガンを患っていた飼い犬の様子を見てきた身としては長く苦しまず自然な形で死を迎えさせてやるのがよいのではないか、という2つの相反する意見が自分の中で衝突していた。

さらにその子猫のお腹には、ガリガリで骨が浮き立っているのにもかかわらずお腹が妙に膨らんでいた。妊娠?いや子猫で妊娠するには若すぎるし・・・もしかしたら何かの病気かもしれないと思った。実際に調べてみると腹水?というようなウイルス性の病気があるようで、それにあたるのではと思った。

何もしなかったと非難されてもしょうがないが、いきなりのことで正しい判断がわからなくなった私が選んだのは明日の朝まで見守る、ということだった。できるだけ辛くないような体勢にしてやるため、スーツケースのなかにタオルを引き直し体をしっかりと伸ばせる体勢をつくってあげた。

自分もへとへとでとりあえず寝たいという思いはありつつも、いつ容体が急変するか分からないためスーツケースの近くにまくらを起き、床で寝ることに。何分かおきに、呼吸をしているか体をチェックする。体が動いていればまだ生きている証拠。それを見て安心するものの、やはり気になるまたチェックする。これをしばらく繰り返したのちに、やはり眠くなり早めの目覚ましをかけ眠りにつくことに。

しかし数時間おきに自然とねぼけまなこながら目が覚めてしまう。猫が発するいびきのような声を聞いて、まだ生きているとホッとする。浅はかなことにも夢のなかで、元気になったその子猫と遊ぶ夢までを見ていた。それを繰り返すこと3,4回。目覚ましがなる前、ちょうど朝の5時半ごろだっただろうか。ふいに目が覚め、急いでスーツケースのタオルの中を覗いた。

私がこの世でもっとも忌み嫌う瞬間だ。

数時間前までは、呼吸のため体が動いていたのに、それが突然動かなくなる。この瞬間をもって私は、これを個体の死と認知する。絶望の崖に落とされたような、悲しみを濃度100倍にしたような描写できない感情が湧き上がる。

それと同時に「死ぬ瞬間をきちんと見守ってやれなかった」という後悔とともに涙がどっと溢れる。なぜ「死ぬ瞬間」に自分がそれほどこだわるのか。それは先ほどの飼い犬の「死の瞬間」に立ち会ったことによる。

よく人は、「朝起きたら(犬が)眠るように死んでいた」といっているが、これは「死の瞬間」を見たことがないからそう言えるのだと思う。「死の瞬間」はこの世で最も辛い瞬間だと思う。眠るように死ぬことはそうそうない。死ぬ瞬間は、生命をつかさどる心臓が止まってしまうわけだから、相当の苦しみが伴う。その瞬間を一人で過ごすなんてのは辛すぎる。だからこそその瞬間まで手を握ってしっかりと寄り添ってあげることが大事なんじゃないかと私は思う。だからその「死の瞬間」まで立ち会うことが、何かしてあげられることの1つになるのだ。もちろん自己満足といわれればそれまでだが。

「何もしてやれなくてごめん」

ただその一言しか、かける言葉がなかった。

出会って12時間後、その子猫はこの世から去ってしまった。

とはいえ死の悲しみにくれる余裕もなく、数時間後には仕事にいかなければいけないという現実があった。とっさに埋めてあげなければ、という思いのもとビニール手袋とタオルにつつんだ子猫の亡骸を洗濯おけにいれおもむろに家の外の庭に出る。

ビニール手袋をはめ、泣いている面が見えないようにサングラスをかけてとにかく深く穴を掘る。朝6時前。はたから見たら朝っぱらから、変ななりをして穴を掘っている、怪しい奴にしか見えないのだがそんなことどうでもよかった。とにかく弔ってやらなければ。動物の火葬場がどこにあるのか、はたまたそんなものがあるのか、この国の人がどうやって死者を葬るのか、何も分からない私が唯一できることが、深く穴を掘ってその中に静かに弔ってやることだけだった。

カラスや虫に食べられないだろうか。そんな不安がめぐりながらもできるだけ安眠できるよう、深く掘ってやる。そしてその中にそっと子猫をいれ、土をかぶせてやる。その上からヤシの実の枯れた葉で十字架を作り土の上にそっと置く。

仕事にいかなければならない朝。私ができたのはこれだけだった。

泣きたくなる気分を抑えつつも身支度を整え外に出る。昨日までは40度近くあった気温がうそみたいにひんやりとした風が肌に触れる。

なぜ死の直前に現れたのか。

考えてみれば、高い塀で覆われている中に瀕死の猫が自力で入ることは到底不可能のように見える。とはいえ猫が入れるような場所もない。誰かが作為的にあの場所においたのだろうか?猫は死ぬ間際になると、人の前から姿を消すと言われているが、今回はまったく真逆じゃないか。むしろ死の直前だから、人に助けを求めていたのだろうか?

なぜあのタイミングで私の前だったのだろうか?

子猫を初めて見かけた数分後、帰宅したのが家のオーナーである中国人。部屋のドアが開いているのを見る限り、私が帰宅する前にすでにあの玄関で子猫を見ていたとしてもおかしくないのだが・・・ドバイにきて結構つらいことばかりが続き本気で日本に帰ろうかと思っていた矢先に、動物の「死」という最も精神に堪える出来事が起こったのは、何か試されているんだろうかと思う他なかった。もう日本に帰れという暗示なのだろうか。

謎ばかりが積もる。

その一方で、自分と生の非力さを感じずにはいられなかった。

目の前に広がるのは、ドバイにきて1ヶ月にして初めて見る霧。その霧の中に摩天楼のごとく浮かび上がるのが、世界一高いビル「ブルジュハリファ」。金でどんどん高層ビルを建て、7つ星ホテルまでつくってしまう豪華絢爛に見えるこの町の片隅で、自分の目の前でやせ細った子猫が死んだという事実。なぜイスラム教のこの町で、食べるものがなくガリガリになる猫がいるのだろう。霧のせいもあって、もはやその高層ビル群は、1つの小さな生命さえも救えないただの虚構にしか見えなかった。

前日に5つ星ホテルなんかで美味いものを食べた自分に妙な罪悪感を覚える。あんなことをして一体何になったのだろう。目の前にガリガリの猫がいるのに。お金の使い方間違っているんじゃないか自分?何が贅沢で、何がリラックスだよ。目の前の小さな命さえも救えなかったのに。急に先日の楽しかった思い出が、自己嫌悪まみれになって卑しい行為にしか思えなくなった。

金にものをいわせてつくらせた世界一巨大なモールやホテル、ビル構想群。その幻想に目がくらみ、半ば魔術にかかったように、お金があれば大概のものは手に入る、と思わせてしまうような街で、「たった1つの命も救えない」という絶望と「死」という強烈な事実。それらは、そんな魔術を一気に消し去るほどしっかりとだけれどもぼんやりとした形で、目に見える虚構以上の本当に大事なことを教えてくれたような気がしてならない。