旅行好きな自分が、実は旅行好きじゃなかったと判明した時の衝撃

人間というのは自分のことなのに分かっていないこともある。もしくは自分が認識していた自分とは違う自分を垣間見ることで、はっとすることもある。

それが私の場合、旅行好きな私だった。


旅行好きな自分だと思っていた自分は偽りだった

大学時代を皮切りに海外へ出かける回数が多くなった。多いといっても年に数回ぐらいである。中東やらアフリカやらへほいほいでかけるので、家族も周りも自分も「旅行好きなのね」と思っていた。

実際に旅をすることは好きだったようだし、新しい場所を歩くのも好きだ。

思い出に残らない旅行

そんな旅行好きな自分を演じるためか、またはドバイという世界への経由地に引っ越し、旅行のハードルが下がったためか、連休の度にどこかへ旅行しにいっていた。

しかし思い返すと、それらの大半の旅行のことが思い出せないのだ。というより、人生において強烈な印象や影響を残すほどのものでなかったのだ。一方で、強烈に印象に残るものもある。

一体その違いはどこから生まれてくるのか。

思い出せない旅行というのは、大半がその国に対して特に興味もなく、航空券が安いから、連休だから、ちょっと気になるからというレベルでいっただけである。

であるから、観光地をちょっと回って、異国の空気を吸うことでその場だけのエンターテイメントを楽しむ。まるでモノを買うのと変わらない消費型の旅行である。

本来旅といえば、旅で得た経験は時間がたっても価値が下がることがないということで、科学的にもモノを買うより、経験を買うほうが幸せにつながるとして、旅へお金を使う方が有用だとする見方もある。

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しかしその旅行という経験にお金を費やしたのに、思い出に残らないとは一体何事か。旅損である。

印象に残った旅というのは、その土地や人々、文化に強烈な興味を持って行った場合である。近年でいうとソマリアがそれにあたる。ソマリアに行ったら他の国なんて大した刺激にならないんじゃないか、と思われるが刺激ではなくあくまで私が求めるのは、出会ったこともない人々や文化の意外性と面白さである。

旅行ではなくてその土地の面白さを発見する

というわけで、私が好きだったのは知らない場所を無作為に見て回る旅行ではなくて、自分が興味がある文化や土地を発見することだったのだ。それが今までは旅行という大枠を通じて実現していたから、旅行が好きだと勘違いしていた。

きれいな場所、死ぬまで見みたい場所なんていうのは興味がない。観光ガイドや他人が見たレポをなぞりに現地まで行くのは、自分にとってお金と労力の無駄遣いだったのだ。

というわけで、最近は無駄な消費をしないのと同じく、むやみに興味がない土地へ旅行する無駄な旅行は控えている。本当に興味がある場所だけに一点集中して、労力と資金を使いたいのである。